思考過多の記録
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| 2001年07月02日(月) |
人生のカウントダウン |
保険や個人年金のCMが今日もテレビから大量に流れてくる。僕はこれまでその手の話に全く興味がわかなかった。何だか遠い世界のことのようで現実味を感じなかったし、保険屋という商売は何だか人の不安につけ込んでいるようであまり好きになれなかったのだ。それに、例えば生命保険などというものは、養っている家族がいなければ意味がない。基本的に独り身の僕は、自分がどうなっても困るのは自分だけということで、いまひとつ必要性を感じられなかったのだ。だから、友人や職場の人が「保険屋さんが来て話をした」というのを聞いても、何だか日用品や証券会社のセールスマンと応対するのと同じことのように思えて、何故そんな煩わしいことに時間を割くのか不思議でならなかった。第一、会社も国も当てにならないから自分で自分の身を守らなくては、などと言うけれど、そういう保険会社だって結構危ないのではないか。結局信じられるものが何もないなら、何をやっても意味はない。そう考えれば、他のセールスマン同様、保険の外交員の話など聞くだけ無駄だと決め込んでいた。 それがどういう風の吹き回しか、会社が団体割引の契約を結んだ保険会社の個人年金の商品の話を聞いてしまった。年金の支給開始年齢が65歳に上がり、一方停年は相変わらず60歳のまま。何もしなければ5年間無収入で暮らさなければならない。ましてやこのご時世である。破綻寸前のこの国で、ライオン頭の変人総理が掲げる「構造改革」とやらが実行されれば年金制度もどうなるか分からない。今のうちから少しずつでも積み立てておかなければ。いや、むしろもう遅いくらいかも知れない…。といった、世間一般のある一定以上の年齢の人間ならおそらく誰もが考えているであろうことが、突然実感となって押し寄せてきたのだ。勿論それは、僕が30代の半ばを過ぎたという事実、そして独身の僕にとって、まさに「頼れるのは自分だけ」という状態になっている現実からくるものだ。 僕と同じくらいの年齢と思われる外交員は、徒に不安感を煽るでもなく、穏やかな口調で商品の内容を説明し、たとえ保険会社が倒産しても元本は保証すると付け加えた。そして、その日のうちに払い込む金額に応じた何パターンかの見積もりを送ってきたのだった。その紙を見つめながら、僕はある感慨に囚われていた。それは、自分の人生がいよいよ終わりに向かってカウントダウンを始めつつあるのだというものだった。 10代や20代の頃、自分の人生に終わりがあることは勿論頭では分かっていた。しかし、高い山の頂上が麓近くからは霞んで見えないように、そこにはいまひとつ実在感が伴っていなかったのだ。自分が大きな病気をして入院したり、不慮の事故に巻き込まれたりすることも想像もできなかった。それよりは今現在自分が抱えている問題や、社会がこの先何処へ向かっていくのかといったことの方が、僕にとってはより切実なことに思えていたのだ。今を生きることに精一杯だったし、今だけ見ていればよかった。何故なら、未来はまだまだ有り余るほどあると思われたし、可能性や選択肢も結構いろいろありそうに見えたからだ。昔から自己評価は意識的に低めにしてきたつもりだったけれど、それでも自分の能力を正しく測ることはできなかったから、そう思えただけのことである。それが若さというものの特権なのだと、そのただ中にいる時には気付く筈もなかった。 そして今、僕は突然自分に残された時間の短さという現実を意識した。そして、間違いなく衰えていく自分と、ますます厳しく、生きにくくなっていく世の中を考えた時、僕は初めて自分の人生における位置を悟ったのだった。そんなこともあって、僕は年金の他に保険についてもこれまでになく真剣に考えようとしている。昔は心の中で密かに軽蔑していた、将来のことばかり考えて「冒険」よりも「安心」を求めて守りに入っていく中年の大人に、他ならぬ自分が近付きつつあることの証左である。妻の妊娠を知った男が父親としての自覚に目覚めるように、こういうことは本当に自然に自覚するものなのだ。時間の過ぎていく早さには愕然とさせられるばかりだ。しかも、自分を支えてくれる家族や配偶者のためではなく、自分1人の身を守るために将来のことを考えなければならないというのは、実に寂しいものである。
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