思考過多の記録
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2001年06月27日(水) 愛する覚悟

 野田秀樹の「贋作・桜の森の満開の下」という舞台を見に行った。初演から数えて3回目の上演である。坂口安吾の原作を野田さん流にアレンジした作品で、高い人気と評価を得ている。僕自身大好きな作品で、いろいろと印象的なシーンや台詞があるのだが、その中でも最も心に残るのは、「愛するものは、呪うか、殺すかしなければならない」という台詞である。
 ドラマでも映画でも小説でも、勿論舞台でも、登場人物はいとも簡単に「愛してる」という言葉を口にする。歌でもそうだ。まさに「愛」のオンパレードである。安売りの感さえある。ちょっとした「好き」という感情を「愛」と取り違えているのではないのだろうか。宗教が説く「愛」など語ろうとも思わないけれど、おそらく「愛」とは、ドラマや映画や小説が垂れ流しているイメージのような、ロマンチックで甘美なだけのものではない。そこには一種の厳しさというか、退っ引きならない凄みとでもいうようなものがある。
 例えば、「愛」は一切の見返りを求めない。言葉で言うのは簡単なのだが、普通僕達は意識的に、また無意識的に何らかの見返りを求めてしまう。そして、自分が愛した分と同じだけ相手が返してくれることを期待し、もしそうならなければ失望し、憤慨し、また相手を責めるかも知れない。だが、それは単に相手を自分の欲望を満足させる対象として見ているに過ぎない。大抵の恋愛関係にある(お互いに「愛し合っている」と思っている)男女の関係の実態は、おそらくこれである。そこにはある種の力学が働いていて、お互いの思いが強まったり弱まったりしながらうまく釣り合う所を探っているのだが、それは本来的な意味での「愛」のあり方とは何の関係もないことだ。かといって、一方的な気持ちの押し売りとも違う。ストーカー行為は断じて「愛」ではないのだ。「愛」はあくまでも「相手のため」であり、そのために自分の身をも捧げる態度である。それを「重い」とか「うざい」と感じてしまう人間は、「愛」に関してはまだまだ腰が定まっていないということになるのであろう。
 そうはいっても、人間は基本的には弱い存在なので、ついつい誰かの好意に甘えてそれに寄りかかってしまったり、 相手と傷を舐め合ったりする自閉的な関係に安住したくなる。こうした関係は、往々にして人を腐らせ、堕落させるものだ。だからこそ、野田さんの台詞になるのである。
 この台詞は、主人公の飛騨匠の木彫り職人にいい仕事をしてもらうために、自分を愛してくれている彼の手にかかってわざと殺される飛騨の王の娘にして天皇の后・夜長姫の、愛する人に刺された死に際の台詞である。現在の状況に安住し、姫との楽しい生活にも慣れて、慢心から職人としての腕を失いつつあった彼が、自分を殺すことでいい作品を生み出す力を取り戻すのなら、自分はそのために身を捧げよう、という姫の匠に対する「愛」から出た行為である。普通の生活をしている僕達現実の人間にはとてもできないことだ。しかし、だからこそ「愛」というものの本来持っている厳しさがある切実さを持って伝わってくる。野田さんの別の作品には「愛するものに差別をつけろ」という台詞が出てくる。これは主人公の少年がそう教えてくれた父親を、自分の手で刺し殺すときの台詞なのだ。
 ことは恋愛に限らない。「愛する」とはかくも困難な、そして命懸けの営みである。抱きしめることだけが「愛」ではない。突き放すことも、傷付けることも、そして時には殺すことさえもひとつの「愛」の形だ。そこにあるのは、血を流しながらも直向きに誰かを求め、その相手と向き合う人間の生々しい、そして汚れのない心の有り様である。そしてそれは、誰にでも簡単にできることではない。誰かを「愛する」という時、そこにはそれ相応の覚悟がなければならない。そうでなければ、人間の精神のいろいろな営みの中でも、間違いなく一番崇高なものの一つである「愛」に対して、またこれまで全身全霊を賭けてそれを実践してきた人類史上の多くの人々に対して失礼というものである。
 僕などは本当に小心の、ちっぽけな存在だ。だから、今好きな女性のことを、呪うことも、ましてや殺すこともできない。じゃあ、あなたは私を愛していないのね、とその人に問いつめられたら困るけれども。


hajime |MAILHomePage

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