思考過多の記録
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コメンテーターとして時々テレビに登場することもある劇作家が日本の近代演劇について語っているのを聞いた。その人によれば、日本の近代演劇は所謂「新劇」に始まるわけだが、歌舞伎や能といった伝統演劇に対するアンチテーゼとして登場した新劇では、「理性」や「論理」に重きが置かれていたという。これはどういうことかというと、例えば新劇の俳優がある台詞を喋るときに、その根拠となるものは彼が演じる役の心理や思想であった。それに対して、その新劇へのアンチテーゼとして登場した「アングラ」「小劇場」演劇では、「情念」や「肉体」を中心とした表現が行われた。アングラや小劇場の俳優がある台詞を喋るとき、そこに論理的な必然性や役の心理といった裏付けがなくても、役者の生理や演劇的な要請に基づけば不可解な行動や絶叫などの台詞回しが可能とされたのである。さて、その次に出てきたのが「静かな演劇」というムーブメントである(この話をした劇作家は、このジャンルに分類されている)。この人達の方法論は「環境」や「関係」を表現の中心に据えているのが最大の特徴だ。この方法の場合、俳優がある役の台詞を喋るのは決してその役の内面的な動機や論理的必然性からではなく、勿論演劇的なエレメントや物語進行上の要請からでもない。彼は、彼の置かれている「環境」(=状況)や相手役との「関係」によってその内容を喋るように促されているのである。こうした考え方を持つ立場からすれば、「新劇」も「アングラ」「小劇場」演劇もともに批判されるべきものとなる。これらは、「静かな演劇」から見ればあまりにも人間の主体性を重用視しすぎなのだ。「人間はそんなに主体的に喋るものではない。」これが彼等の思想の核心である。 ところで、これは演劇という1ジャンルの話に留まることではない。そもそも演劇という営みは世界の根元的な姿をいかに写し取るかということを最大の関心事としているので、不遜な言い方になるが、演劇の表現手法が変化したということは、取りも直さず世界の姿(特にその根本にある構造)そのものが変化したことを意味する。伝統の呪縛から解放された確固とした‘主体’=‘自己’の存在を誰も疑わなかった、そして自己と近代的な価値観(例えば「自由」や「民主主義」「科学的合理主義」)との齟齬を誰も感じずにいられた幸福な時代が去り、その近代合理主義に疑問を呈し、「近代」によって殺されていた人間の内的衝動や生命力を武器に(時にはドラッグの力まで借りて)、世界の変革を目論んだカウンターカルチャーの徒花も散り、消費社会の爛熟の宴の中での朦朧とした理性を頼りの「自分探し」ごっこさえもバブルの崩壊とともに費え去った今、僕達には一体何が残されているのだろうか。演劇が出した一つの仮説が、「人間は、環境や関係に左右されて存在する」というものだったのだ。 今のところ大きな流れとしては一番新しいムーブメントであると思われる「静かな演劇」のこの仮説は、ある種の妥当性を持っていると僕は思う。人間の主体性などというものはある種のお伽噺に過ぎないと思わせることは、自分の日常を振り返ってみればいくらでもあるからだ。回りの雰囲気によって何となく至った結論を、恰も自分が前々から考えていたことであるかのように自らも錯覚していたりするのもその例だ。また、反射的に思ってもいないことを口にしてその場を納めたりするのも、「自分」を欺く行為という側面だけではなく、「環境」によって作られた「自分」の行動だということもできる。偉そうに胸を張って見せびらかせる「自分」など、大抵の人は持ち合わせていないのが実情なのではないだろうか。 とはいえ、人間はなかなか鏡に映った自分の姿を自分であると認めようとしない。「静かな演劇」は1つのムーブメントだが、圧倒的な支持を得ているとまでは言い切れない。それどころか、その舞台は観劇の玄人以外にとっては甚だしく退屈なものだ。劇場にかかる芝居の圧倒的多数は、「主体性」を持った人間が「自分」の考えを「自分」の言葉で語る、極めて「近代的」な構造である。人は「主体性」という夢を舞台や映画、ドラマや小説といった芸術作品の中に求め続けている。それが人間と芸術双方にとって本当にいいことなのかどうかは分からない。けれども、ともかく僕達は世界が理性と論理で動いているという「物語」や、確固とした個人の内面や主張という「主体性」に対する願いにも似た思いにどうしようもなく縛られ続け、結局は解放されることはないのだろう。そしてそれは、「人間はそれほど主体的に話すわけではない」というのが真実であるのとほぼ同じくらいのレベルで、人間の真実の姿に近いと言えるのだ。 ところで、僕はこのサイトをある人から紹介され、与えられた自分のスペースを埋めるために文章を書いているわけだが、それではここに書かれた言葉は、僕が「自己」の主張を表現するために「主体的」に書いたものといえるのだろうか。
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