思考過多の記録
DiaryINDEX|past|will
この国ではこれまであまり起こらなかったような凶悪犯罪が、ここ数年立て続けに発生している。あまりにもその頻度が高くなっているので僕達の感覚も鈍ってきている程だが、先週末に起きた大阪の小学校での小学生大量殺傷事件は、白昼の学校で幼い児童が襲われ、何人もの犠牲者が出たということで、少なからぬ襲撃を僕達の社会に与えたようだ。この「エンピツ」でも、あの事件について書かれた文章がいくつもアップされていたようである。亡くなったり怪我をしたりした人達に対する同情や労りの気持ち、また犯人に対する怒りや憎しみ等がその主な内容であろう。メディアの取り上げ方も概ねその方向性だ。だが、殺されたり傷付けられたりした子供達が可哀想だとか、犯人を即刻死刑にせよというのは、言ってみれば感情論である。あのような悲惨な事件に対してどんな論理的分析も無力であるという主張も分かるが、これは思考過多の記録である。感情論の殆どは被害者側の視点に立つものだが、小文では敢えて犯人(容疑者)の側に焦点を当てたい。 現時点で報道されている内容から感じられるのは、恐ろしいまでの自己中心・自意識過剰的な彼の生き方・考え方である。それは、自分が気に入らない人や物事に対して執拗なまでの攻撃性を発揮していることにも現れている。彼は中学の卒業文集の自分のページに一切の言葉を書かず、高校中退後は職を転々としている(その中には、「人を殺せるから」という理由で入ったとされる自衛隊も含まれている)。そして、どの職場でもトラブル(殆どが暴力事件だ)を起こして辞めている。何度も結婚しては離婚をし、親しくなった人の養子になったと思えば、間もなくトラブルを起こしてそれを解消する。同僚のお茶に薬を混入する。自分から人間関係を作ってはそれを自分から壊すことの繰り返しだ。周囲とのコミュニケーションがうまくとれず、自分を取り巻く環境と折り合いを付けることもできず、その都度その苛立ちを爆発させていたのがよく分かる。 彼にとっての悲劇は、常に自分を世界の中心に置いておきたいと願っていたにもかかわらず、実際の彼は世界の周辺部の、どこにでもいて他人と交換可能な存在に過ぎなかったことである。学生時代に医者になりたがったり、IQに興味を示したりしたとの報道は、それを裏付けているように思われる。上昇志向と劣等感。彼の苛立ちの最大の原因はこれなのかも知れない。その苛立ちを誰にぶつけても、彼が彼自身である限り、いつまでたっても事態が解決されることはない。だとするなら、必然的に唯一の解決法は‘死’ということになる。それならば何故彼は自殺をしなかったのか。 僕の勝手な解釈はこうである。彼は自分がこの世界から消えるにあたって、どうしても自分の存在を周囲にアピールしておきたかった。あのサカキバラ少年が書いた「透明なボク」の存在を社会に認めさせるという発想と同じように、自分1人がひっそりと世界の片隅から消えていくのではなく、自分の存在を世界から消すことが、逆に自分の存在を際立たせることになるような方法を彼は選んだのだ。恋人への当てつけのために手首を切る人間の心理である。この目的を成就するためには、世界=社会にできるだけ大きな衝撃を与え、自分に衆目が集まるようにし向ける必要があった。その時彼は、初めて世界=社会との関係に置いて絶対的に優位に立つことができる。何故なら、彼のやった行為の衝撃が大きければ大きいほど、彼は世界の中心に立つことができるからだ。彼がこれまでにも多くの罪を犯しながらも少しも反省することもなく、むしろ法律を勉強したり精神障害を騙ったりすることで自分を守る術を身につけようとしていたのも、何をしても咎められないような存在になることで、自分を世界の中心に置きたいという願望の現れだったのかも知れない。そして、出口が見えない状況の中でいつしかブレーキが利かなくなっていったのだろう。 その意味で、彼が小学生を、それも所謂「エリート」校の児童を狙ったというのは象徴的である。彼は自分に(自分が望んだような)未来がないのを知っていた。だから、その全く逆の存在、すなわち前途洋々たる希望に満ちた未来の可能性をたくさん持っている存在である小学生が妬ましかったに違いない。実際彼は何人もの人間の未来を奪い、また多くの人間の将来に暗い影傷を引きずらせることに成功したのだ。そして、そのことによって彼は自分の未来を永遠に殺すことになったのである。
|