思考過多の記録
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| 2001年06月02日(土) |
夢の中で現実を見る人間、現実の中で夢を見る人間 |
前にこの日記でも書いたが、夢の実現には気力や根性の類ではどうにもならないことがある。夢はどこか他の想像上の世界で実現させるわけではなく、他でもないこの現実の中で形になっていくものだからだ。夢の現実化のためには適切な戦略が求められる。その意味では、本気で夢を実現したいと思っている人間こそが最もクールな現実主義者なのである。もしそうでなければ、夢は夢のまま終わってしまい、ついにはこの現実世界に姿を現すことができずに潰え去る。勿論、彼はそれを潔しとはしない。 一方、現実に生きながら夢を棄てられない人間もいる。夢の実現のための戦略が立たず、またその実力もないために、現実を生きるのに精一杯になってしまうのだ。にもかかわらず、いつかはその夢が現実になることを願い、後生大事に抱えている。それこそが自分の存在意義であると信じることで、自分の置かれた現実の辛さを何とか帳消しにするためだ。そして、自分の現実を犯さない範囲で(ということはつまり、その人間の能力の範囲内で)それを実現しようとする。結果としてできあがったものは彼の夢からは程遠いが、彼はそれで満足するしかないことをよく知っている。 残念ながら僕は明らかに後者の種族にはいる。だが、一つだけ違うのは、夢を現実化する能力を持たないのに、その能力を持った人達と組もうとすることだ。僕は自分の分相応のものを作るだけでは満足できない。それは自分が目指すものとは違うし、それで満足することは、とりもなおさず現在の自分の能力の限界を認めてしまうことになるからだ。諦めが悪いと言われればそれまでだし、単なる見栄っ張りだと指摘されれば返す言葉もない。虫のいい「いいとこ取り」との批判も甘んじて受けよう。しかし、僕のやっていることは間違っているだろうか。僕はただ辛い日常という現実から逃れるために夢を抱えているだけの存在なのだろうか。 けれども、僕の望みを実現しようとすれば、不可避的に夢を現実化しようとする人達の足を引っ張ることになる。そういうことに対して、現実主義者である彼等は非情である。彼等の判断基準はただ一つ、自分の夢の実現にとって有意義であるか否かである。勿論、彼等を責めるわけにはいかない。それは誰が見ても真っ当な判断であり、間違えているのは僕の方である。他人の夢の実現に対して障害になるようなことは慎まなければならないだろう。 けれども僕は、本当は彼等と共に歩みたかったのだ。そして、彼等と同じレベルのものを作っていた筈だ。もし自分に力があれば、そしてもっと多くの時間が残されていたなら、僕は間違いなくそうしているだろう。現実を幻だと自分に言い聞かせるために夢を見るつもりなどさらさらないのだ。 けれども、現実はそうではない。悔しいけれど、これが現実なのだ。 夢を諦め、夢を追うことからきれいさっぱり足を洗って、現実の中に生きている人達も多い。それも僕よりかなり若い人間達がである。けれども僕はそこまで潔くはない。これが僕にとっての「第3の現実主義」である。
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