思考過多の記録
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2001年05月28日(月) 僕達を忘れない

 コンピュータの世界でも家電の世界でも、記憶媒体の進化は目覚ましいものがある。パソコンを考えてみても、つい数年前までは小さなデータはフロッピー、それより大きなデータはハードディスクという風に棲み分けがなされていた。そこにCD−ROMが登場し、書き込み用のMOが出てきたかと思えば、CDに書き込めるCD−RやCD−RW、DVDのROMやRAM、RにRWと次々にメディアが作られてきた。デジカメにはスマートメディアやフラッシュメモリーもある。パソコン以外では、音声を記録するレコードやオープンテープが小型化かつデジタル化してカセットテープやCD、MDに進化、今ではMP3でさらに小型になっている。映像も16ミリや8ミリのテープからVHS、DV、LDにDVD、最近はハードディスク等々、手軽によい画質で、しかも低価格で記録できるようになってきた。
 生物学上の‘記録’といえば、当然‘記憶’のことだ。これもまた当たり前のことだが、人間の脳には自ずと限界があり、個人差はあるものの、ある一定量以上の情報を貯め込んでおくことはできない。また、時間が経つにつれて記憶は徐々に薄れ、不確かなものになり、ついには消える。だから人間はしばしば、意識的もしくは無意識的に記憶を捏造したり変形したりする。VTRに映っていたから言ったつもりはなくても言ったみたいだ、などと見え透いた(?)言い逃れをした財務大臣もいるくらいだ。また、強いストレスがかかると、人はその記憶を失うこともある。こういう、いわばあてにならない記憶力の限界をはるかに超える形で、人は記憶媒体や手段を進化させてきたのだ。
 何故これ程までに人類は「記録」にこだわるのだろうか。僕が「記録」で思い付く人類最古のものは洞窟の壁画である。そこには、古代その場所に生きた人々の生活が、時にはカラフルに描かれている。いったい彼らは何故そんなものを描き残す必要があったのか。呪術的なことと関係があるのではないか等諸説あるが、僕は勝手に、古代人達がそこに自分達が生きていたという事実を、自分達の死(生命的限界)の後、それを超えて残しておきたかったということではないかと想像している。家族が集まり部族となり、それが統合されて国となる。生活習慣や生活する場所、言語さえ変化していく。その過程で自分達の生きていた日常の痕跡が消えていっても、壁に描かれた絵の中にそれは残る。彼等はそれを意図したのではないか。
 絵は象形文字となり、やがて「紙」が生み出されて記録の主役は文字によって書かれたもの=手紙や書物になる。これも情報の定着や伝達という側面から見る見方の方が一般的だろうが、僕には、物語や思想を書物に書き付けるという行為はやはり自分の思想や想像力の産物といった形のないものを、それを生み出した人の生物学的限界を超えて残していこうという執念の産物のように思えてならない。それは後生の人間達に向けて、またその時を生きたその人自身に向けての何らかのメッセージである。やがてある時点の風景を定着させる写真が発明され、動くものや音声を記録する手段が開発された動機も、おそらく根本においては同じであろうと想像される。とにかく人間は残したかったのだ、自分達がここにいたということを。
 人間が記録する手段を完璧に近づけることに執着するのは、とりもなおさず人間がおのれの生の一回性を知っていて、何とかそれに抗したいという虚しいけれど切実な、祈りにも似た思いの現れであろう。忘れること、忘れられることは、自分達が存在していたことの証の喪失をも意味するからだ。けれども写真は色あせ、テープはすり切れ、DVDもやがては正確な色や物の形を映し出さなくなる。この世に永遠なるものはない。この星が生まれてこの方、地上に生きた夥しい人間達の「記憶」や「記録」はやがて「歴史」というブラックホールに吸い込まれる。もはや誰がどこでどんな風に生きていたのかを特定するものはない。それでも、決して報われることなどないのに、人はせっせと記録し続ける。消えていく時間=生を追い求める、哀しい、そして健気な生物である。


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