思考過多の記録
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GWが終わって数日が経った。また物理的・精神的に仕事に支配される日常が始まっている。長い休みが続くと、中には1日も早く仕事という日常に戻りたいと思う人もいる。というより、実はそういう人の方が結構多数派だったりもするのだ。仕事をしていると、自分が必要とされているという実感が持てる。自分の持てる力を発揮して、何かをやり遂げた時(新製品の開発に成功したり、プロジェク聖子したり、新規の顧客を獲得し、利益が増大したり等々)、充実感や達成感を味わうことができる。そういう自分や、仕事が成し遂げられていく過程が好きだということだろうか。だが、正直言って、僕は全くそうは感じない。仕事がなくて、でも生きていくだけの経済的な裏付けがあるなら、僕は間違いなく仕事なしの生活を続けることだろう。今の仕事が嫌いというわけではないのだが、どんなに休みが続いても、「早く仕事に戻りたい」とは思わない。 僕にとっては、「仕事が好き」というのは非常に恥ずかしいことなのだ。勿論、世の中にはそういう人がたくさんいて(これまた、おそらくその方が多数派であろう)、僕はその人達を否定するつもりはない。ただ、そういう考え方を心身共に拒絶してしまうのだ。理由は2つある。1つは、「仕事好き」というのが、僕の頭の中ではどうしてもかつての「モーレツサラリーマン」のイメージと結び付いてしまうからである。彼等は別名「社畜」と呼ばれている。会社と仕事に全身全霊を捧げ、安い給料でもわき目もふらず、極端な場合は倒れるまで働き続ける。そんな姿こそサラリーマンの鏡とされていた時期が長かった。そういう人達が現在のこの国の反映を築きあげたことは否定しないが、一方でそういう労働のあり方がこの社会をだめにしてきたという面もある。会社に魂までも売ってしまい、話題の殆どは仕事のこと、人間関係も仕事中心、生活も仕事中心…というのでは、あまりにも貧しい人生ではないかと思えてしまうのだ。「人はパンのみにて生きるにあらず」ということである。2つ目は、仕事は決してボランティアでもサークル活動でもないということである。確かに、自分の興味・関心に近いことを職業としている場合は、やっていること自体が楽しくなり、ついついのめり込んでしまうこともあるだろう。だが、忘れてはいけないのは、やったことに対して「報酬」が支払われるからこそ「仕事」なのだ。好きでやることと、だから賃金やその他の労働条件は低くても構わない(場合によってはなくてもいい)ということはイコールにはならない。「報酬」を得るために僕達は会社と雇用契約を結び、労働を提供する。そういうある種ドライな部分を自分の中で保っておかないと、「社畜」の世界にいってしまいがちになる。あくまでも僕達は「商品」として労働力を提供し(商品価値を高めるために、人はセカンドスクールに通い、様々な資格を取得するのだろう。それはそれで僕にとっては気恥ずかしいことだ)、その結果として「報酬」がある。そして、それで明日のパンを買う。仕事は生きていくための手段だ。少なくとも僕はそう思っている。だから、そんなものに「全身全霊」を傾けはしない(これは「手を抜く」ということとは少し違う、つもりである)。当然、会社に対しての忠誠心もなければ、過剰な愛着(所謂「愛社精神」)もない。魂まで仕事や会社に売る意思は毛頭ないのだ。 だが、世の中も次第に「仕事中心は恥ずかしい」という方向に少しずつではあるが向かいつつあるようだ、家族や趣味等、その人が職場を離れた時に大切にしていたり、生き生きできたりするものを持っていないのは、人間として寂しいことなのではないか、ということに漸く気づき始めたということだろうか。 そんなわけで、僕は仕事が嫌いである。今、この文章を書いているのは仕事では勿論ない(何故なら、どこからも「報酬」が払われないのだから)のだが、この営みの方が僕にとっては余程全身全霊を傾けるに値するものに思われる。充実感や達成感も、現在の仕事の比ではない。だが、これで生活することはできないのも厳然たる事実だ。それは、僕の文章力が、これを売り物にするほど高くはないということの証明であろう。かくして、明日も僕は「仕事」をするために、行きたくもない職場に向かう。 これは、僕が会社や仕事に魂を売り渡していないことのアリバイ証明的な文章である。我ながら情けないものである。
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