思考過多の記録
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2001年05月04日(金) 皆様のNHK

 今大きな関心を集めている教育問題について、文部科学大臣や教育学者、経済人等数人を集めての討論番組がNKHで放映されていた。見ていると、どうにも議論がかみ合っていない。その原因は、どうやらこのやりとりが「討論」になっていないことのようであった 番組は大きなトピックを3つ設定して、それぞれについて出演者が討論するという構成だったのだが、司会者が発言者を指名し、個別に質問していくという進行の仕方だったので、議論は盛り上がらず、しかもかみ合わなかった。見るに耐えなかったので(というよりも、時間の無駄としか思えなかったので)、僕は途中でテレビを消した。
 この番組は、何故こういう進行の仕方だったのか。それはおそらく、これがNKHの番組だからである。公共放送たるNHKは「不偏不党」でなければならないという呪縛がある。別に誰かがそう言った訳ではない筈だが、どういうわけか当のNHKは昔から酷くそのことに気を遣っているようだ。この場合、出演者に成り行きに任せて討論させると、どうしても発言時間や回数が出演者によって違ってきてしまう。「朝まで生テレビ」を見れば分かるが、よく喋る人や声の大きい人、あるいは人の話の途中に割り込む人等、他の人よりも相対的に見て多くの時間を使っている出演者は必ずいる。当然、その割を食って自分の主張をあまり取り上げてもらえない出演者も出てくる。そういった事態を回避しようと思えば、いきおい司会者が発言の機会と時間をコントロールせざるを得ない。全ての出演者がほぼ平等に発言の機会を与えられ、しかも番組全体がある出演者の主張ばかりを取り上げ、肩入れしたという印象を与えないようにする。これがNHK的討論番組の至上命題である。そんなわけで、出演者は誰かの発言を受けて発言するというよりは、司会者の質問に答えて自分の主張をただ述べるだけになってしまう。つまり、各自が自分の主張を述べ合うだけ、いわば「言いっ放し」の状態なのだ。これでは論議が深まるはずもない。しかし、おそらくNHKはそれこそが客観的な報道姿勢だと思い込んでいる節がある。ここに、「国営放送」とも揶揄されるあの報道機関の本質が表れている。
 本来の討論とはそういうものではないだろう。あるトピック、例えば「学力とは何か?」という命題を巡って、参加者が様々な角度から意見を述べ合い、そのテーマを深めていくといったものだ。相手の発言の中から重要と思われる部分を取り出し、それについて自分の意見を述べたり、新たな見方を提供したりしていくことによって議論は発展していく。最終的に討論参加者の意見が一致することはなくても、論点がはっきりしたり、問題点が浮き彫りになったりすれば、視聴者は(そして参加者も)それを手掛かりにその問題についての理解を深めたり、いっそうの探究の手助けにしたりするのだ。1人の人間がそれについての考えを述べているのとは違った作用や効果がなければ、討論の意味はないのである。もっと根本的なことをいえば、「会話」(対話=ダイアローグ)とはそういうものなのだ。
 NHKの討論番組がこうなるのは、「皆様のNHK」でなければならないからである。誰もが納得する形に納めなければ、「皆様のNHK」ではない。だが、「皆様」とは一体誰なのだろうか。本当にどの立場の「皆様」の意見をも代表する放送(=不偏不党)は可能なのだろうか。そして、それが本当にジャーナリズムのあるべき姿なのだろうか。
 NHKは視聴者からの受信料で成り立ち、その予算の執行は国会での承認が必要である。そういう事情から、NHKが視聴者からのクレームや政府与党からの圧力に対して摩擦を避けるべく「客観報道」に徹したくなる気持ちも分からないではない(その結果、しばしばその姿勢は政府与党寄りに傾く)。だが、それは組織防衛というべきもので、報道機関の使命とは何の関係もない。「皆様の…」という美辞麗句とは裏腹に、自らの報道姿勢や主張を明確にしないその実態は、「誰のものでもない」といった方が正しいように僕には思われる。


hajime |MAILHomePage

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