思考過多の記録
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2001年04月18日(水) 「命の大切さ」について

 僕の誕生日だった先週末、1人の小学6年生が母親を刺し殺すという事件があった。詳しいことはまだ分かっていない。メディアに流されている断片的な情報によれば、彼は6年生になった今年、それまで通っていた小学校から転校した。そのことで悩み、包丁で自殺を図ったところ、それを母親に見とがめられ、父親に知られることへの恐れもあってカッとなり、母親と包丁を持ってもみ合ううちに、弾みで刺してしまったということである。所謂「キレる」子供という図式ではない、何と評論していいのかも分からない出来事である。
 この事件の後初めての登校日に、少年の通う筈だった小学校で全校集会が開かれた。取材に応じた校長は、全校生徒の前では事件にはふれずに「命の大切さ」についての話をしたと語っていた。僕は内心「またか」と思った。生徒がキレて誰かを殺傷したり自殺をしたりすると、その学校の校長は判で押したように全校集会で「命の他切さ」について話をする。まるで見えないマニュアルが教育現場に存在しているかのようだ。果たして校長をはじめとする教師達は、この手の話で何の効果を狙っているのだろうか。こんな抽象的テーマでな話をされて、一体そこから何を学べというのだろうか。子供達を動揺させまいとする大人側の配慮(深謀遠慮?)だというのだろうが、僕には「命の大切さ」なるものを本気で信じ込んでいて、それを子供に伝えることで「事件」を未然に防げるという無邪気な信仰によるものか、さもなければ、新たな事件をその学校の生徒が起こした時に、「私達教師は教育的指導をきちんとやっていますよ」ということを示すためのアリバイ作りおよび自己保身のためにしているか、このいずれか以外に考えられない。第一、いくら大人達が隠そうとしても、多分子供達はメディアを通じて事件を知っている。「命の大切さ」などという一般論でお茶を濁すのではなく、具体的な「彼」固有の事例として話し、子供達に考えさせる方が、教育者として余程適切な対応ではないかと思う。もう一つ言えば、「命の大切さ」という文脈でこの事件を取り上げようとすると、自分の命を捨てようとしたばかりか、それを止めようとした母親の命を奪った彼は、必然的に悪者にならざるを得ない。だが、そういう一般論や「道徳的」な価値観で彼及び彼の行動を評価していいのだろうか。そうは思えない。前にも書いたことだが、こういう事件の場合、メディアから発信される情報とは別の隠された事情や背景があることが多い。今回の場合、たとえば家族関係等がそれにあたるだろう。全ての背景が分からない以上、あまり性急に彼を断罪するのは避けるべきである。が「命の大切さ」という価値観で表面的に彼の行動を測り、それに基づいて彼に審判を下してしまいたがっているのは、壊れかかっている道徳律を守ろうとする社会(共同体)側(その代弁者の一人が教師だ)の焦りの現れである。「命の大切さ」などという白々しい話をすればするほど、教師や親と子供達との距離は広がっていくことに大人達は早く気付いた方がいい。
 僕が心配なのは、またぞろ「道徳」や「正義」の仮面を被った無頼のメディア(別名「おじさんジャーナリズム」)が、彼を「親殺し」と責め立てるのではないかということだ。曰く「我が儘」「我慢が足りない」「親不孝」「精神的にひ弱」…。彼を誹謗・中傷するのみならず、その家族の過去までも暴き立て、ついには顔写真を公開し、彼を社会から永久に抹殺しようとするだろう。あまつさえ、この事例を利用して、「非行・犯罪の低年齢化に対応して、刑法や少年法の改正を」「たとえ未成年者でも、凶悪犯罪には厳罰・極刑を」などと主張し出す可能性も高い。社会の秩序を守るためなら、一人の人間がどんなに傷付き、追い詰められ、そして壊れていってもいいのだろうか。一般化することで僕達が見失うことはあまりにも多い。特に今度の場合、「母殺し」をしてしまった彼が、これから長い人生を生きていくことは想像を絶する困難さがあるだろう。彼が一人前の人間になって、自分のしたことを背負って生きていけるようになるまで様々な形で支援していくことが、大人達の本当の役割ではないのだろうか。
 などと偉そうなことを書きながら、もし自分に子供がいたら、僕はこの事件をどう伝え、何を語るのだろうと考えてみた。結論はそう簡単には出そうにもない。


hajime |MAILHomePage

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