思考過多の記録
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2001年04月13日(金) 形而上の「思考」、形而下の「思考」

 新社会人達が街にデビューしてから10日以上が経過した。そろそろ彼等も各自の仕事の内容や職場の雰囲気をつかみ、各々の日常のリズムを形成しつつあるところであろう。それでも、ラッシュの電車に乗り込む姿などは、まだぎこちなさが残っている。世間のリズムに乗りきれない体が各々に独自のリズムとのずれを感じ取って、ささやかな抵抗を試みているようだ。が、それもあと数週間の話である。間もなく彼等も、何も考えずに人の流れに乗って電車の所定の位置に納まったり、複雑に入り組んだ地下道をこともなげに通り抜けて目的の路線に乗り換え、また最適の出口を選んで地上に出るという芸当をやってのけるようになるだろう。世間に生きるための毎日のリズムを、体は確実に覚え込んでいく。
 こうした日常の繰り返しは、その中に生きる人間から「思考」を奪っていく。決められた時間に会社に行き、一日の活動可能な時間のうちの大部分を仕事のために拘束され、仕事に関することのみを行い、話し、考えることを強要される。所定の時間を経てやっと解放される頃には、体力も気力も大きく減退している状態だ。当然心も体も、リラックスやリフレッシュを欲する。「思考」することは、精神的にも肉体的にもエネルギーを消耗する行為だ。避けたいと思うのが人情である。たとえ思考する意思はあっても、体が拒否することもしばしばだ。
 仕事中心の毎日はまた、その人間の興味・関心をも仕事関係中心にさせる作用がある。働く者一人一人のスキルの高さが求められる昨今のシビアな労働環境がこれを助長する。人々は業務時間が過ぎても、あるいは休日でさえも仕事のことが頭から離れず、関連の本を読んだり、関係する場所に出かけていったりして、情報収集に余念がない。こうして一日の大部分、いやもっといえば1年の大部分を仕事に関してのあれやこれやに費やすことになる。自然と仕事に関すること以外のことは次第に頭から離れていく。歌番組をチェックしなくなり、ドラマを見なくなり、映画や芝居・コンサートに足を運ぶ機会も減る(自分の仕事と関係のある情報が得られそうなものに関しては、話は別だ)。趣味に割く時間と労力の割合は減り、いつしかハウツーものや所謂ビジネス書の類以外の本、例えば小説や詩集を手に取る回数は減る。かくして人は、仕事と生活に流される毎日の中で、根本的なことについて論議したり、深く考えることをだんだんとしなくなっていく。株価の先行きに関する予想や、好きなタレントが誰と週刊誌に載ったか、今晩のおかずは何にすればいいのか、ヒット商品を生む企画は如何に立てるべきか、職場のあの子を食事に誘うにはどうすればいいのか等々、所謂形而下の問題が頭の中で主役の座を占める思考である。
 僕はこうした思考を否定するつもりはない。ただ、「存在するとはどういうことか」といった哲学上の各種の命題をはじめ、およそ日常生活やビジネスには無関係な(そう思われる)形而上的な問題についての「思考」は、決して浮世離れした学者の戯れ言(思考実験)などではないと思うのだ。そういった形而上の思考は、僕達人間の存在を支える、いってみれば不可視の基盤のようなものである。確かにエルマーの最終定理が証明されなくても夕餉の買い物には困らないし、時間とは何かが分からなくても時計は読める。ただ人間は、そういった目に見える世界とは別の次元(形而上)にある問題を発見し、それをつきつめて答えを発見したり、新たな次元への問いを見いだしたりする力を持っている。また、それをもって日常を照射することで、普段当たり前のようにやったり考えたりしていたことの背景にある仕組みを理解することができるのだ。時間とは何かを問うことは、何故僕達が「時間」を必要とする生活を送らなければならないのかについて深く理解することにつながっていく。ひいては、僕達自身のあり方も見えてくる。ただし、それは日常生活に目に見えて役に立つ「情報」ではない。
 仕事や日常生活の中での形而下の思考と哲学的大命題等の形而上の思考は、相補的な関係にあると思う。どちらも人間には必要である。両方をバランスよく持てるようになると、その人は人間としての深みを持つ。それは生きていくことに直接役には立たないかもしれないが、確実に人生を豊かにしてくれる。
 僕は不真面目な社会人なので、できるだけ仕事のことは考えたくない。それなのに、ご多分に漏れず僕の時間も「思考」も圧倒的に仕事にとられてしまっている。できることならもっと深く「思考」する時間がほしい。「下手の考え休むに似たり」という言葉もあるにはあるのだが…。となかなかうまく「思考」がまとまらないのは、仕事で疲れているせいだ、と言っておこう。


hajime |MAILHomePage

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