思考過多の記録
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2001年04月07日(土) 「真っ白な」私

 入学式、入社式のシーズンである。桜の花が最後の見せ場を作る花吹雪の下、まだ真新しいランドセルや制服、スーツに身を包んだ1年生やフレッシャーズ達がまぶしそうに歩いている。こういう光景を見るたびに、自分にもそういう時代があったのだと思い出し、少しは新たな気持ちに立ち返ったつもりになれる時期でもある。そうした新人達に対する言葉としてよく言われることが、「真っ白な画用紙に絵を描くように、」新しい環境で頑張ってほしいとか、自分の可能性をのばしてほしいとかいうことだ。確かに、小希望に満ちあふれたフレーズである。説明するまでもないが、「真っ白な画用紙」はまだ何ものにも染まらない真っ新な状態を表し、そこから始めるということはまさにゼロからのスタートである。これには何でもできそうなイメージがある。それまでに嫌なことがあったり挫折を経験したりしていても、そういうことはなかったことになって、恰も生まれ変わった新しい自分が誕生したかのようだ。しかし、人間は本当に「真っ白」な状態になることができるのだろうか。
 ある大学の発達心理学の先生の研究によれば、こどもがある内容を学習する場合、その知識に対して「白紙」の状態でいることはまずないという。例えば小学校の1年生は、算数の一番最初の段階で数を数えることや数の構成や、順序数などを習う。こうしたことに対して子供は全く知識を持っていないという前提で、教科書やカリキュラムは作られている。当然教師もその前提で授業をする。しかし実際はどうだろう。小学校入学間もない子供の殆どが、学校に入学する以前から既に日常生活や家庭での教育の中で、これらのことに対して何らかの知識を持っている状態であろう。他の教科についても同じことが言える。つまり、子供は「白紙」の状態で授業を受けるわけではない。故に、既存に知識量やその子の理解力や情報処理能力、問題解決能力の特性等の因子によって、授業で与えられる知識の吸収力、理解度は違ってくる。
 この現象は何も学校に限った話ではない。人生のどんな段階に置いても、人間は決して「白紙」にはなれないのである。この世に生まれた時点で、誰もが「真っ白な」状態ではない。喩えて言えば、人は皆全く違った材質の紙を持っているといったところだろうか。ある人は和紙、ある人はコート紙といった具合である。薄い青色の紙もあれば、予め模様が入った紙もあるだろう。ある紙はインクの乗りが悪いかも知れないし、別の紙は鉛筆で書くのに適しているだろう。その上に同じ絵を描いたとしても、当然結果は変わってくる。その人が生まれながらに持っていたり、育ってきた環境等で形成された能力や特性は、どこまでも付いてまわる。自分の望んだ方向には、必ずしも適正はないかも知れない。自分の希望で選んだ道では、うまく自分という紙に絵が描けないかも知れないのだ。
 しかし、絶望することはない。ある病気を発症する原因となる遺伝子を持っている人間が100パーセントその病気を発症するとは限らないのは、その人の生活習慣や環境等の外的要因による。つまり、人はいつでも持っているものやそこまでに獲得したものを土台にしなければならないとしても、それが全てとはいえないのである。環境が変わるということは、その人に働きかける因子が変化するということで、そうなるとそれまで全く知らなかった自分の特性が発見されたり、潜在的な能力が引き出されたりする可能性が出てくるのだ。新しいことに挑戦することで、それが結果的に失敗しても、能力のキャパシティを増やすことができるかも知れない。たとえ「真っ白」な状態ではなくても、全く別の色に染めたり、材質を変化させられるのだ。実際にはそれもその人の持っている能力の範囲内のことかも知れないけれど、それまで目一杯だと思いこんでいたことが、実は能力の半分も発揮していなかったと分かることは、その人がさらにキャパシティを広げるきっかけとなるだろう。
 「真っ白」になれない自分を嘆く必要はない。自分の紙の色や材質の特性をよく知り、どんな絵を描けくのが自分にとって最適なのかを見極める目を持てればよい。なおかつ、それにとどまらずに、自分のまだ知らない能力や適正を発見するために新しいことへのチャレンジも忘れないようにしたいものである。放っておくと、年齢とともにその力は失われてくるものだ。最近の僕は、ともすれば自分の能力の限界に失望させられ、そこで立ち止まることが多い。まだまだ自分にも発揮されていない能力がある筈だと思いたい。が、そういうことを強調し始めるのは年を取った証拠だということも、僕はよく知っている。


hajime |MAILHomePage

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