思考過多の記録
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働きながら子育てをするというライフスタイルは、今や特別なものでも何でもなく、少なくとも都市部に限って言えば専業主婦に変わってスタンダードの地位を獲得しているといっていい。では、そうしたワーキングマザーが働きやすいような環境は十分に整備されているのかと言えば、全体としてはまだまだお寒い状況である。勿論、一昔、ふた昔前に比べれば育児休業法の制定や、託児施設を備えた企業も登場する等、格段に改善されてはいる。しかし、企業ごとの格差は大きいし、制度があっても職場の雰囲気等から利用できなかったりする場合もある。この国のワーキングマザーは苦労を強いられているのだ。 僕の勤める会社には、産前産後休暇、育児休暇と育児時短の制度がある。経営側が「進んでいる」と胸を張る制度であり、どこの部署でも比較的取得しやすい雰囲気なので、在職中に妊娠・出産した人の殆どが利用している。だが、この制度にも不備がある。それは、期間の問題だ。会社が定めた期間が終わると、子供の病気や定期検診や保護者会といった子供絡みの事で早退や遅刻・欠勤をした場合、それは自分の有給休暇を使わなければならなくなるのだ。1年間にもらえる有休の日数には限りがあり、それを越えた場合は普通の欠勤扱いになってしまう。当然、その分は月々の給料とボーナスから差し引かれることになる。僕の身近にもそういう人がいる。「その分仕事をしていないんだから当然だ」という考え方もあるだろう。しかし、彼女は何も自分個人の都合で仕事をしていないわけではないのだ。育児関係と自己都合とが同じ扱いというのはちょっと酷だと思う。 ワーキングマザーを巡るこのような問題は、「子育て」という活動を企業や社会がどう考えているのかをよく表している。その昔、僕の母親が進歩的な思想の本を出版することで有名なある出版社で、当時としては珍しいワーキングマザーをしていた頃、子供絡みで仕事を休んだりすると「自分の子供のために仕事に穴をあけた」という目で見られていたという。勿論、育児休暇や育児時短はなく、自分の有休を使ったり月給から差し引かれたりするのは当然だと思われていたのだ。時代は移ってもこうした考え方は根強い。子育ては「個人」、もしくはその「夫婦」固有の問題だと思われているのである。そうなると、いきおい女性にしわよせが来る。育児に協力的な夫も増えつつあるけれども、例えば子供絡みの事情で仕事を休むことに対して、本人も周囲も抵抗感がより強くなるのは男性の方である。女性(母親)個人が家事や育児に悩み、苦しみ、時には実家の母親までも巻き込んだ形で負担を強いられるのだ。そのあげくに、仕事に十分に専念できないからという理由で職場では疎まれ、賃金までカットされる。それがまた精神的な負担になってのしかかる。これでは、働きながら子供を育てることは女性にとってはただの「負担」でしかない。子育てと仕事の両方をぎりぎりの状態でこなし、自分が体調を崩して仕事を休んだりしている僕の職場のワーキングマザー達を見ていると、一体誰のためにそこまで苦労して「子育て」をしているのだろうと思ってしまう。仕事をまともに続けたいと思う女性が、シングルでいることや、結婚しても子供を産まないという選択をするのも無理はないのである。だからといって、女性が仕事をしながら子育てをするのは不自然なあり方だという考え方にはまったく賛成できないし、おそらくそれは実情とはかけ離れている。 確かに子供は夫婦の間に生まれた存在で、その人達「個人」のものかも知れない。だが、庭の花を育てるのと違って、子供は将来この社会を(そして世界を)担う存在だ。その意味で、子供はまさに「社会」の子供でもある。だとすれば、「子育て」は社会的な行為でもあるわけで、それを行いやすいように手厚い支援をすることは、社会に課せられた義務であるともいえる。そこで仕事を持った人間とそうでない人間を差別することがあってはならない。子育てをしてる個人の善意に頼っている現状は間違いであり、社会全体(具体的には行政や企業)の怠慢である。少子化を嘆く暇があったら、こういうところにもっとお金と知恵を注ぎ込むべきだ。 僕の職場のワーキングマザーの方が子供絡みで休めば、周囲(勿論僕も含めて)の人間がその穴埋めをしなければならず、負担になるのは事実だ。だが、それはやむを得ないことである。彼女達の育てた子供に、いつか僕達は支えられる時が来るのだから。彼女達の努力には頭が下がる。と同時に、それをおそらく陰で支える夫達の努力と苦労はいかばかりかとも思ってしまう。それが特別なことに見えるあたりが、この国はまだまだ子育てする者に優しくないなと思われる。そういう僕は、きっと子育てを支援する能力に欠けている。してみると、僕が独身なのは理に適っていると寂しく納得するしかない。
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