思考過多の記録
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出版不況だそうである。平たくいえば、本が売れない。確かにベストセラーは出ているが、1年間に出版される書籍の総点数を考えればそれはほんの一握りにすぎない。何故本が売れないのかについては色々な分析がある。ネットの普及やコミックやゲームの隆盛等がその要因に挙げられている。が、より根本的なことは、読むに値するような本が作られていないということであろう。端的に言えばコンテンツ(中身)の問題である。もちろん、中身のない本が作られ続けていることにも理由はあるわけで、そこを改善できないと問題の解決にはならない。 その昔(といってもそれ程前のことではないと思うが)、本がまだ人々への思想や知識の伝達の主要な手段だった時代、当然本によって得られる思想や知識や情報が社会の主流を占めていたし、文化の主役の一つでもあった。その帰結として、書籍は出せば息長く売れていた。例えば文豪といわれる小説家の作品や偉大な思想家の著書で述べられていることは、時代を経てもその価値は不変であり、長く読み継がれていくものであった。時代の流れのスピードは今よりずっと遅かったし、何よりも書かれている文章が時代の移ろいに耐えうる内容だったのだ。それは、時代の表層の流れとは全く無関係に、いつの世にも変わらない普遍性を持った事柄についてかかれていたものもあろう。また、一見その時代を活写しているが故に古びてしまうかに思われても、実はその底流に不変のものを含んでいて、時代を超えて読むものに響く文章もある。こういった本は長く読まれ、その結果長期間にわたって出版社に利益をもたらす。出版社の側にすれば、次の本の企画を考えるための期間が比較的長く与えられるということで、それだけ洗練された企画の本ができる可能性が高くなるということだ。こうして内容を充実させればまたその本は長く読まれることになるという具合に、「読む価値のある本」が市場に出回る仕組みができていたわけである。発行点数自体を多くする必要のないこのシステムの下では、出版社は企業としての規模を大きくする必要はなく、企業を維持するために必要とされる売り上げも現在に比べれば少額だったであろう。その意味でも、出版社は営利目的の企業というよりも、活字文化の担い手という側面の方が大きかったのだ。 ところが、時代は移り、いつしか書籍というものの文化的な位置付けが変わってきた。本は「情報」を得るためのもの、またその時代の人間をターゲットにしたエンターテインメントのひとつということになった。それまで主に雑誌が担ってきた役割が、一般の書籍の主要な役割になったのである。その結果、いわゆるハードカバーはもとより新書、文庫の類に至るまで、中身の情報としての新鮮さ、読みやすさ(軽さ)が求められることになった。商品としても文化的な価値の上でも、一つ一つの本の寿命は確実に縮まり、広告費や流通経費の増大等もあって利益率は下落した。こうなると、多くの新刊書を短い間隔で発行し続けなければ商売が成り立たなくなる。多くの本を発行するために企業規模を拡大すれば、会社存続のためにはなおさら多くの利益が必要になる。発行点数はますます増える。中身の質が低下するのは当然の帰結である。企画を練る期間は短くなり、書き手は消耗させられ、消費される。ある本がブームになれば、二匹目のドジョウを狙っ本が次々と出版される。今や本は消費財としての側面をもった「商品」になってしまっているのだ。「すぐに売れる」本が求められ、「長く読まれる」ことは二の次にされている傾向が強い。 こうしたことは何も本に限らず、「芸術作品」(=文化)が商業レベルと接する部分で多く見られる現象だ。例えばテレビドラマは主演の役者(タレント)の顔ぶれが真っ先に決まり、それに合わせて企画を立て、脚本を作るのが当たり前になっているという。「芸術作品」を作る手順としては全く逆転していることはいうまでもあるまい。そこにあるのはまず視聴率、すなわち「売れるか売れないか」という商品価値第一主義の考え方である。 勿論、「芸術作品」といえども多くの人間の目に触れることは大切だし、何よりもその作者は霞を食って生きることはできない。「文化」を売るのは容易なことではない。しかし、「文化」を消耗品にしてしまったのは、受け手である僕たちの責任も大きいのだ。もう少し落ち着いて物事を考え、じっくりと「中身」を吟味する目を養いたいものである。「文化」は作り手と受け手が共に育てていくものなのだから。
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