思考過多の記録
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| 2001年03月31日(土) |
「普通」であることのストレス |
殺人事件等で犯人が捕まった時、決まり文句のように使われる言葉に「容疑者はごく普通の」という形容詞がある。この言葉の後に「主婦」「学生」「会社員」などといった職業(役割)が続くわけであるが、そこには「普通の人が異常な行為に及んだ」ことに対する、社会の側の恐怖心が見え隠れする。普段から目立って「普通」の人と違う行動をとっていたり、神経科に通院した過去でもあれば、なされたことがどんな異常な行為であっても人々はそれなりに納得する。だが、一見「普通」の人間がとても「普通」では考えられないことをしてしまうことは、「普通」に市民生活を送っていると自覚している人々には理解不能なのだ。ましてや、その動機が不明であったり、「普通」の論理や因果関係では説明できなかったりすればなおさらのことだ。基本的に僕達は、分からないものに対して警戒心や恐怖心を抱く。だが、僕は「普通」の人が「普通」とはかけ離れたことをするというのは、ある意味で当然のことであると考える。なお、ここで言う「普通」とは、社会的規範を内面化して、それに基づいていて考え、行動する状態であると定義しておく。 社会(共同体)の中にいる人間がこういうことを考えるとき、「普通」でいることは当たり前、つまり、「普通」が「普通」の状態だということを前提にしているのが‘普通’だ。しかし、よく考えてみてほしい。本当に「普通」の状態は、僕達人間にとって「普通」のことなのだろうか。例えば、母親には母親の、妻には妻の役割があるとされる。そして、それに則った形でいくつかの行動様式や思考パターンがあり、家庭を持った多くの女性はその枠(=社会的規範)の中で日々思考し、行動することを強いられる。それが当たり前(=「普通」)だと何の疑いもなく受け入れられる分にはいいのだが、日々の生活の中で、その規範と時に相容れないものがあることに気付かされる場合がある。それは、その人がそれまで生きてきた環境の中で培ってきた感覚であったり、生物としての人間の生理や本能であったりするのだが、そういったいわば自分の中に無意識のうちにインプットされているものと外側から自分を規制する社会的規範との間に、様々な軋轢が生じたりして、規範に従うことに違和感を抱くようになるのだ。何故なら、そもそも「社会的規範」というものは人間にとって「自然」でも「普通」でもない。それはいろいろな人間が一緒に暮らしていく「社会」というシステムを維持するために、いわば「人工的」に作られたものだからである。最大多数の最大幸福のための決まり事は、必ずしも個々人にとって最適なものではあり得ないのは当然のことだ。みんなに合うように作られた服に自分の体を合わせることは容易ではない。必然的に何らかの無理が生じる。 自分自身の感覚を完全に麻痺させて、「社会的規範」を自分のものだと思いこめれば問題はない。だが、それを完全にやり遂げるのは至難の業だ。ましてや毎日のことである。そこにストレスが生まれる。それはその人の中に澱のように徐々に蓄積されていく。まるで、僕達が生活している大地の地下深く、マグマが地上への出口を求めて蠢くように、また片方のプレートの移動によって地球内部に引き込まれてゆくもう一方のプレートに歪みが溜まっていくように、ストレスという歪みとそのエネルギーは日々蓄積されてゆく。それが意識されるとされないとに関わらず、やがてある種の人間は、そのエネルギーに押されて、「普通」な日常に裂け目を入れたいという衝動に駆られる。それをごまかしたり、うまく発散させる術を知っていれば何とかなる。だが、それができなかったり、それではエネルギーを完全に発散させられない状態にまでになってしまうと、いよいよ日常生活は地獄になり、規範と自分との間の齟齬は大きくなっていく。そしてある時何かのきっかけで、地下からマグマが吹き上がるように、また引き込まれていたプレートが歪みを解消しようと一気に跳ね戻るように、「普通」な状態を破壊する行動に及ぶというわけだ。それが自分自身に向けられれば「自殺」になり、外側に向けられれば「犯罪」になるということである。そこまでには至らなくても、多くの人が体験する所謂「キレる」状態というのは、日常生活の中でストレスが我慢の限界を超え、まさに「爆発」によって「普通」の日常に小さな裂け目を入れる、ささやかな抵抗の行為であるといえよう。 「普通」の状態を壊す行為を、僕達は「狂気」(まさに「凶器」だ)や「異常」と呼ぶ。だが、人工的な「普通」に対する違和感や抵抗感をおぼえることの方が、考えようによってはむしろ「普通」なのではないか。「普通」であり続けることはストレスを伴う。だからといってなされた犯罪行為が免罪されるわけではないのだけれど、「普通」をうち破りたいという願望や衝動は、「普通」の生活をしている人間なら誰でも持つ可能性はあり、したがって「普通」の人が一見「異常」な行動に走る可能性は、誰しもが持っているということなのだ(サイコホラーやサスペンスの隆盛はそのことの証左だ)。その人がその行為に及んだことを説明できる因果関係や法則性はなきに等しい。本当の怖さはそこにある。「我慢」を教える教育や、「命の大切さ」についての言説、厳罰主義等では真に問題を解決することはできない。自分の感覚を狂わせ、麻痺させるのは限界がある。そして、社会規範そのものの矛盾が明らかになりつつある現在、社会を構成する個々人のストレスは高まりつつあるのである。
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