思考過多の記録
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| 2001年03月25日(日) |
「事なかれ主義」について |
数週間前になるが、新聞の投書欄に今年高校を卒業するというある地方の女子高校生の投書が載っていた。彼女は、自分の高校の卒業式で日の丸・「君が代」を巡る対立が先生方の間にあることを批判する。そして校長に「全員が起立して歌うか、それができないのなら日の丸・『君が代』はなしにしてほしい」と直談判したというのだ。そして、先生達の争いのために自分達の卒業式を混乱させてほしくはない、何故なら主役は生徒なのだから、と憤りながら主張するのだ。一見もっともな主張である。そして、勝手な推測だが、おそらくこれは多くの高校生の意見(というよりも感覚)を代弁している。だが、もしその推測が正しいとするなら、この国の未来はあまり明るくないといわざるを得ない。 日の丸・「君が代」自体の問題にはひとまずは触れないことにさいて、この女子高生の主張にだけ注目してみよう。彼女にとっては、日の丸・「君が代」を巡る争いは対岸の火事(先生同士、あるいは先生と偉い人達との争い)である。それは自分達には理解不能であり、したがって自分達には無関係である。その不可解で無関係な筈の問題が、自分達の一生に一度しかない記念すべきお祝いの席である卒業式の場に持ち込まれ、そのことによって式が混乱し、本来無関係な筈の自分達が巻き込まれて嫌な思いをしたくない。そんなことは、どこか他の場所(式場の外、より望ましいのは職員室の中)でやってほしい。これが彼女の主張の背景にある思想である。だから彼女にとっては、出席者全員が日の丸・「君が代」を受け入れるか、そうでなければ完全にそれを排除した形で式を行ってほしかったのだ。日の丸・「君が代」が式でどう扱われるのか、そのことが教育的・社会的・歴史的にどんな意味を持つのかといったことは、彼女にとってはどうでもいいことなのだ。彼女はただ、自分達の社会的空間が乱されないことだけを願ったのである。これは、「生徒が主役の式を取り戻したい」という「主体性の主張」の皮を被ってはいるが、その中身は「事なかれ主義」に他ならない。 昨今の若い世代は自分達の仲間内の範囲しか関心がなく、その外側にあることに対する想像力が欠けている(いわゆる「社会性の欠如」)と言われて久しい。勿論、阪神・淡路大震災の時を始め、ボランティア活動に参加する若者が結構いるという事実もあるので、一概には言えないだろう。ただ、彼女のように、自分達の関心の埒外にあることに対する「事なかれ主義」に陥っている人間は、若者に限らず全ての世代において少なくない。自分達の直接関係する世界の外側のことについて見ようとしない、そしてコミットもしない。そうやって暮らしていられれば平和である。外側の世界での争いごとは、自分達に及んでこなければ存在していないに等しいからだ。けれども、その種の「事なかれ主義」では何の解決にもならないことは言うまでもあるまい。いかに目を背けても、問題はそこに存在し続けるのだ。そして、いつか必ず無視できないものとなって、僕達に影響を及ぼすことになるのだ。そして多くの場合、その問題は、その段階ではもはや解決不能になっている。 卒業式を混乱させてほしくないという気持ちは分かる。だが、式を混乱させるような問題が確実にこの国に起こっていることは、紛れもない事実である。そのことを問題だと認識している生徒も勿論存在する。だから、そのことを生徒達にありのまま、きちんと見せ、それを受け止めて考えてもらうようにする方がよい。何故なら、彼(女)等はこの国に生きて、この国の社会の将来を担っていかなければならないのだから。卒業式の混乱を避けるために、力(職務命令や処分等)で反対の動きを押さえつけるより、よっぽど「教育的」な措置だと思うのだが、どうだろうか。
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