思考過多の記録
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| 2001年03月17日(土) |
「怒り」という感情について |
先日読んだ鴻上尚史著「あなたの魅力を演出するちょっとしたヒント」(講談社)の中に、感情についての章がある。その中に、「自分の感情を知ることの大切さ」が書かれていた。自分が今、喜怒哀楽のどの感情の状態に近いのかを把握すること、そして自分はそのいずれの感情になりやすいのかという傾向を普段から掴んでいることが大切だ。それが感情を上手にコントロールすることによって自分をよい状態に持っていき、ひいてはその人を魅力的にすることにつながるのである。納得できる内容である。同時に、言うのは簡単だが、これはなかなか高度な技術を必要とすることだとも思う。僕達は往々にして感情に流され、振り回される。理性では理解できても感情的に受け付けなかったりすることもあり、なかなかやっかいだ。だからこそ日常的に自分の感情の傾向を知っておこうということになる。 そうやって考えてみると、僕は結構「怒」に偏っていることが分かる。日常僕と接している人には穏やかな人間だと思われているらしい。しかし、この日記を読んでいる人にはお分かりだと思うが、僕は何かの事象に反応する時、大抵の場合「怒り」という形をとる。「〜はおかしい」「〜は許せない」というフレーズが多いのはそのためである。何故そうなるのかは、これまで僕が生きてきた環境や出会ってきたもの・人等様々な因子が複合的に影響し合ったため、としか言い様がない。鴻上さんの教えに従うなら、これを上手くコントロールして、気分を変えながら生活していくことができれば、魅力的な人間になれるのだろう。だが、未熟者の僕はまだその域に達していないようだ。それどころか、「怒」の感情が出てきたとき、それを別の感情の方向に向けようとしないで、そのまま「怒」の方向に走らせてしまうのだ。 徐々に老いつつある僕の両親は、最近悲しいドラマや暗い(嫌な)ニュースが流れてくると、テレビのチャンネルを変えるようになった。そういうものは「見たくない」とはっきり口にする。そうやって感情を切り替える術を長い人生の中で会得してきたのだろう。しかし、そこにはもう一つの理由がある。それは「哀」(悲しみ)や「怒」(怒り)といった感情は、それ自体で結構エネルギーを必要とするということだ。「喜」(喜び)や「楽」(楽しみ)というポジティヴな感情は、基本的に心をリラックスさせたり活性化させたりする正の方向であるから、多くのエネルギーを使わずにその状態に入れるし、持続させられる(勿論、人によってはそうとは言えない場合もある)。それに対して、怒りや悲しみは負の方向性を持つので、意識的にその状態になることは多くの人にとって不快であり、その感情を持続すると精神的にエネルギーを消耗するものだ。そういうわけで、大抵の人間にとって怒りや悲しみはできれば避けて通りたい感情であり、それを喚起するような事象に関わったり目にしたりすることを忌避したいと思うのが自然である。そして、できるだけ忘れるように努める。 にもかかわらず、怒りや悲しみが重要になる局面もある。それは、その感情の原因になるものを取り除き、二度と同じ怒りや悲しみを抱くことのない状態を作り出さなければならない場合だ。この局面において、怒りという負のエネルギーは変革という正のエネルギーに転化する。多くの社会において、その変革のための運動を担うのが若者達である理由がここにある。彼等にとっては、怒りのエネルギーを引き受け、それに身を任せることは苦痛ではないのだ。そして、ある事象に対してきちんと怒れる感性を持ち続けるということは結構重要だ。何かの政治的な事件の時、「これが外国なら、サラリーマンが暴動を起こしている」とコメントした人がいた。この国は、上から下まで怒りを忘れてしまったかのように見える。怒りを眠らせたり、その原因から目をそらせて気分を変えたりすれば、その時点では怒りを忘れられるかも知れない。だが、その原因となるものを放置しておけば、事態は全く好転しないどころか、むしろ悪化することは目に見えている。巷から目に見える怒りの行動が消え、そのエネルギーが鬱積して弱いものへと向かっていくのは、「成熟した社会」ではあるまい。 怒りっぽいのも困りものだが、怒ることのできる感受性だけは失わずにいたい。何も気にならず、全てを許せるような寛容な心を持つのは、生きることへの執着が薄れ、棺桶に足を突っ込む瞬間で十分だと思っている。
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