思考過多の記録
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| 2001年03月16日(金) |
コンビニエンスな家族・再論 |
先日この日記で、コンビニで買い物をする家族の話を取り上げた。後日、その文章を読んだ僕の知り合い(一児の母)からメールが届いた。それを読んで自分としてもいろいろ思うところがあったので、改めてそれについて書いてみようと思う。 あの文章で僕が無意識に前提にしていたのは、おそらくある年代から上の人間の潜意識に刷り込まれてしまっているであろう「理想の家族像」だったのだ。コンビニで弁当を買う主婦=食事作り(家事)を手抜きしてる=家族における主婦(母親/妻)の役割を果たしていない、という図式が頭にあったのだと思う。普段から所謂「モデル」というものに対しては意識的に懐疑的な態度をとるようにしていたのだが、僕の中にも知らず知らずのうちにそのモデル像が刷り込まれてしまっていたのだ。文化というのは恐ろしいものである。などというのは言い訳に過ぎない。率直に自分自身の思考の甘さを反省したい。 僕達はついつい「モデル(理想型)」を求める。例えば、子供のいない夫婦に対して「子供はいつ?」と挨拶代わりに訊いてしまう。また結婚していない人に対して「まだしないの?」「相手はいないの?」と訊いてしまう。「そろそろじゃない?」などというのもある。だが、人にはそれぞれ事情というものがあるし、理想とするある生き方というものがあるだろう。子育てをしている夫婦の方が子供のいない夫婦に比べて、社会的に認められた「モデル」に近いけれど、だからといって「子供のいない夫婦」は間違っているというわけではないだろう。仕事に専念することで充実した人生を送るために一人で生きることを選んだ人は、子育てをしてる人に比べて「モデル」から遠いが、そのことで責められるいわれはない。片方の親と子供とで形成される家族が、「普通」の家族の形ではないとの誹りを受けるのも、よく考えればおかしな話だ。配偶者を持たないことを選んだ人間にとっては、その生き方こそがその人自身の「モデル」なのである。 自分の理想型通りに人生を送れず、やむなくその生き方を選択してる場合もある。また、自分が望んで選んだ立場でも、やってみると考えていたものと違ったということもあろう。コンビニで昼食を買っていたあの母親は、どこか人生に疲れたような顔をしていた。誰かがやらなければならないが、その割には達成感のない‘家事’という苦役が永遠に続くかと思われる日常という牢獄の中で、時には手を抜いて楽をしたいと思う日があっても全く不思議ではない。家事労働の現場に閉じこめられている専業主婦も、仕事と家庭の両立に悩むワーキングマザーも、家庭を顧みずに仕事に逃避するビジネスマンも、みんな「モデル」の家族からはほど遠い場所にいるのだ。そしておそらくそうした人達の方が多数派であろう。ままならない現実のただ中で、何とか折り合いをつけて自分自身の理想型に近付こうとしてあがいている人達がいるかと思えば、諦めて現状に順応して生きていく術を見出した人達もいる。そうした様々な人達が、コンビニで交錯してるのだ。 少子化や家庭内暴力、はたまた幼児虐待や離婚・再婚の増加等によって、家族の形は多様化し、様々な問題が噴出している。従来型の家族の崩壊に危機意識を抱いてか、政府は「家族」の役割をことさら強調する。学校で使用される家庭科の教科書では、所謂「理想の家族像」が描かれ、「お手伝いをしましょう」「家族で団欒をする時間を作りましょう」と子供にそれを懸命に刷り込もうとしている。だが、先にも書いたように、今や「モデル」の家族の方が特殊形になりつつある。「普通」の家族はどこにもいないのだ。そのことを嘆いても仕方がない。逆に、一人一人がどんな家族を「モデル」にするかが問われてくる。それはしんどいけれど、決して悪いことではないと思う。 独り身の僕にとっては、理想の家族像はまだ漠然としている。ただ、一人で生きていくことを「モデル」として選び取ったわけではない。これから出会うかもしれない自分のパートナーになる人と一緒に、僕は自分にとっての、そして自分とその人にとっての理想型を、ゆっくり探していこうと思っている。
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