思考過多の記録
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2001年03月10日(土) それでも田中康夫を支持する

 「脱ダム宣言」をした長野県の田中康夫知事に対して、毀誉褒貶が巻き起こっている。ダム建設の方針を巡って対立した土木部長を更迭したと思ったら、今度は私設秘書が辞任することになったという。田中知事への批判は政策の内容についてのものよりも、その手法に対してのものが目立つように思う。中でも繰り返しテレビで放映されたのが、長野県議会の長老議員の「ヒットラーの再来を思わせ、恐ろしさを感じる」という趣旨の発言だった。報道によれば、田中知事の就任以来、長野県議会にはこの新しい知事に対する警戒感や不快感が蔓延していた。だから今回の「脱ダム宣言」に対して議会が反発するのは無理もない。また、この種の対立は、かつて選挙公約に従って都市博を中止した当時の青島幸男東京都知事と都議会との間にも見られた。「無党派知事対議会」という図式である。田中知事の場合は、長野県庁の役人達も相手にしており、「無党派知事対役人」という図式もあることになる(田中知事本人は否定しているが)。
 「脱ダム宣言」の中身はさておき、県庁の役人達や議会に事前の相談もなく政策の方針を打ち出すこうした手法が、果たして「独断専行」「恐怖政治」なのかを考えよう。確かに今回の田中知事の発表は、それまでの長野県の政策を180度転換するものであり、ひいては国の治水事業のあり方にまで影響を与える程大きな方針の変更を意味していた。そんな大事なことを議会や役人と相談せずに決めるのはおかしいという批判はあり得る。だが田中知事は、就任後突然このことを言い出したわけではなく、選挙期間中も「鉄とコンクリートのインフラ整備からの脱却」「公共事業の見直し」を言っていた。当然有権者はこれを知っており、その上で県民は田中康夫を知事に選んだのだ。就任後も県内各所で県民集会を開いて、賛成・反対双方の県民から直接意見を聞いている。その上で、選挙公約とこれまでの自分の行動・言動に基づいた信念に照らしてあの宣言をしたのだ。その意味で、「独断専行」というのは当たらない。かつて選挙では「導入しない」と言っていた売上税(現在の消費税の前身)を、選挙直後の国会で成立させようとして見事に失敗した某政権政党があった。それに比べれば余程民意に忠実である。
 県議会や県庁の役人(主に幹部クラス)達が田中知事の手法を批判する理由は、要するに「(県民ではなく)自分達に何の相談もない」「自分達が今までやってきたことを無視した」ということに尽きる。これまでの長野県は、戦後一貫して知事は県庁(役人)出身者であり、議会はそれをオール与党で支えてきた。つまり、全てを身内で進めてきたのであり、一般県民など眼中になかったのである。治水におけるダムの役割を子細に検討した結果のダム建設というよりも、公共事業によって建設業者に仕事を与えるためにダムを次々に造っていたという側面が強いのではないか。議会はともすればこうした業者達の利益を代表する。そうすることで、議員達には票と金が回ってくるからだ。そして役人達は、高度経済成長期にこの国の開発で取られてきた手法を脈々と受け継ぎ、低成長と環境保護が叫ばれるようになったこの時代にも、変わることなくそれを遂行してきたのだ。勿論役人達は選挙の洗礼を受けることがないので、基本的には自分たちの論理だけで政策決定ができた。知事選挙の最中、知事候補である元副知事(自分達の身内)の応援演説で県庁の役人は、「田中候補は公共事業の見直しといっているが、何を見直すというのか。(自分達)プロが決めているんだ」とマイクを握って絶叫していた。まさにそういう姿勢が「変化」を願う県民にそっぽを向かれて、田中知事が誕生したのである。
 議会や役人達が積み上げてきた規定の方針に則って動いてくれるのが、これまでは「いい知事」だったかもしれない。しかし、そのやり方はあらゆる面で行き詰まっている。これからは市民に情報を公開し、その声を直接政策に反映させていかなければやっていけない。田中知事はそういう流れの中で誕生したのであり、その意味で彼は民意に背いて行動することはできないだろう。してみれば、今回の「脱ダム宣言」は彼の独断専行ではなく、それこそが現時点での民意をより正しく反映していると思うが、どうだろうか。
 これは長野だけの問題ではない。吉野川可動堰の建設の是非を問う住民投票が行われたとき、当時の建設大臣は「間接民主主義の否定であり、民主主義の誤作動」と言った。これもまた「自分たちが決める筈のことに、地元住民ごときが異議を唱えた」ということへの嫌悪感をよく表しているコメントだ。「選ばれた」ことに対する畏れを知らず、ただその優越感のみに浸っている。「選ばれた」筈の自分達が民意から遠いところにいることを、図らずも露呈してしまっている。それこそが議会制民主主義の危機を招き、「ヒットラー(的なもの)の再来」のお膳立てをすることにつながっていくのだ。議員の方々は、田中知事を批判する前にそのことに思いをいたし、違った意味での危機感を持つべきではないだろうか。


hajime |MAILHomePage

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