思考過多の記録
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| 2001年03月05日(月) |
コンビニエンスな家族 |
正午を少し回った頃のコンビニで、若い母親がまだ学齢に達していないと思われる子供の手を引いて買い物をしていた。お総菜の棚の前で母親が、「何にする?グラタンがいい?」などと言いながら、お馴染みの容器を手に取っていた。子供は無表情だった。時刻から判断して、この親子は昼ご飯を買いにきたのであろう。この親子は毎日当たり前のようにこれを繰り返しているらしかった。僕には理解できない情景だった。 聞くところによると、最近では子供の遠足にコンビニ弁当を持たせる親がいるらしい。パートや専業主婦といった比較的時間を作りやすい筈の親の中にも、そうする人がいるそうだ。その神経も僕には分からない。こんなことを書くと、某保守系政権政党の支持者か何かのようで嫌なのだが、遠足や運動会の弁当は、やはりプラスチック製で何かの絵やキャラクターなどが書いてある家の弁当箱に詰まった、母親(父親でも構わない)手製の弁当であってほしい。子供にとって「弁当」というのは‘非日常’=ハレの食事なのである。それと同時に、日常から離れたハレの場所で母親手作りの弁当を食べることで、普段あまり意識しない母親の愛情を直に感じることができるものでもあるのだ。中身に冷凍食品が使われていても構わない。母親が手をかけて作った(アレンジした)ものであることが重要なのである。コンビニの弁当では、母親によって「買い与えられた」ものだという印象を子供に残す。それは本来愛情を自分に注いでくれる筈の母親から、どこか突き放されたような感じがしてしまうのではないだろうか。 昼食や弁当をコンビニで買い与える母親は、自分の子供を心底可愛いと思っていないのではないかと疑いたくなる。どこか子育てに対して投げ遣りであり、本当は自分の自由のためには子供は邪魔になるとさえ、心のどこかで思っているのではないか。 そしてもっと恐ろしいのは、そのことに対して子供自身が何とも思わなくなってしまうことである。昼ご飯をコンビニの総菜で済ませても、遠足にコンビニの弁当を持たされても、それが当たり前な環境の中にいれば、その子にとってはそれが親子の関係である。親は自分を受け入れ、愛情を注いでくれる存在であるという前提自体がないのだ。そして、それを寂しいとも思わない。何とも寒々とした関係である。こういう子供が周囲と上手く人間関係を作っていけるとは思えない。 僕の書いていることは、誤解と偏見に満ちているだろうか。家族にもそれぞれの形があるし、人それぞれに事情もある。政治家や学者達が考えるような理想の家族の形などある筈もない。しかし、僕にはどうも「コンビニに家族連れ」という情景が引っかかるのだ。これまでコンビニは主に「単身(独身)者や学生(児童)」が利用する店だったのである。つまり、基本的に「独り者」の生活支援のための便利さ(コンビニエンス)=手軽さを提供する場だった。「家族」がコンビニを使うということは、人間関係の根本的な部分が変質してしまっているように思えてならない。かう言う僕もよくコンビニ弁当のお世話になる。基本的にはわびしいものだ。連日報道される幼児虐待のニュースとあわせて考えると、家族というシステムもまた、わびしいものになりつつあるのだろうか。
追記:3月4日の小文の中で、「新しい歴史教科書を作る会」が編集した教科書を「高校の歴史の教科書」と書きましたが、「中学校の歴史の教科書」の誤りでした。お詫びして訂正いたします。
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