思考過多の記録
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「新しい歴史教科書を作る会」という団体が製作した高校日本史の教科書が、文部科学省の検定に合格して実際に学校現場で使われる運びになりそうである。これに対して、中国や韓国などのアジア諸国から批判の声が挙がり、市民が抗議行動を起こしている国もある。同じように歴史教科書を巡って対外的に批判を浴びたことは過去にもあったが、その時は「侵略」を「進出」に書き換える等といった教科書の記述が問題となっていた。今回は、個々の具体的な記述もさることながら、その教科書の編集方針自体が問題視されたのである。 「作る会」曰く、これまでの歴史教科書は日本が(とりわけ明治以降敗戦までの間に)いかに悪いことをしてきたかを強調する「自虐史観」であり、これでは子供達が自分の国に対して、また自分が日本人であることに対して誇りを持てない。日本のしてきたことにはいいこともあったという、イデオロギー的に偏らない正しい歴史観(「自由主義史観」と彼らは呼ぶ)を身に付けさせ、自国を愛する健全な日本人を育成していかなければならない。かいつまんでいえば、これが彼らの主張である。この愛国的な主張に同調する人間は、所謂有識者や政治家等に多いが、特に地方の一般の人達や若年層の一部にも結構支持されているようだ。 これは非常に危険な兆候である、と警鐘を鳴らす人は多い。僕もそう思うが、それ以前の問題としてよく分からないのは、何故日本のした悪いことの歴史を教えないことが、国を愛する人間を育てることになるのかということである。南京大虐殺をでっち上げだと言い張ったり、太平洋戦争に至る日本のアジア侵略を、アジア諸国を欧米列強から開放する戦いだったと強弁したり、彼らの主張のアナクロニズムには驚く。それは明らかに「日本は正しい」という視点から見た歴史である。そうまでして白を黒と言いくるめ、あったことをないことにして自分の国の過去を綺麗にして、それが国を愛することにつながると本当に思っているのだろうか。地球上のいかなる国も、また民族も、その歴史に汚点を持たないものはない。自分たちの国や民族が犯してきた歴史上の過ちと向き合い、それを認め、相手に謝罪すべきは謝罪して、そこから何を学ぶかを考えるのが、本当の歴史教育ではないのか。僕達は、親を選べないように生まれる国を選べない。そこで暮らす限り、僕達はその国や民族の過去を背負ってしまうのだ。伝統文化を学び、継承していくことも大事だが、それと同じ位、いやもしかするとそれ以上に、‘負の歴史’を学び、後世に伝えていくことは重要であると考えられる。そのことが、より一層自分の国や民族に対する理解を深めていくことにつながると思うのだ(と同時に、それらを相対化することも可能にしてくれる。実はこちらの方がより重要である)。自分の生まれた国を愛さなければならないという前提自体に僕は大いに疑問を持っているが、百歩譲ってそうすることが望ましいとしても、過去のよかったことも過ちも全てを認めた上で受け入れるというのが、いいところだけを見て無条件に賞賛する態度に比べて、より深い愛情ということにならないだろうか。これは一人の人間を愛する場合と同様である。 もし、「自由主義史観」なるもので育った人間が、韓国などかつて日本が侵略したアジアの国の人と話をすることになったらどうなるだろう。あちらは当然、日本に侵略された歴史をずっと教えられてきたのだ。確実に日本および日本人のイメージは悪くなると僕は思う。そして現在も、愛国者を自任する政治家達が、こうしたことに思いをいたさない軽率な発言で彼らの愛する祖国の評判を下げているのである。 この問題には様々な要因が絡んでおり、この小文ではとても全てを精緻に論ずることはできない。また、僕自身はいかなる政治勢力にも与するものではない。ただ、かつて同じ日本と同じく対戦に敗れたドイツ(当時は西ドイツ)のヴァイツゼッカー大統領が自国の歴史にふれた演説の中で、「過去に目を塞ぐものは、現在に対して盲目となる」という言葉を述べたことを思うにつけ、彼我の差を感じざるを得ない。こういう言葉を語れる政治家を持たない国を、僕は愛することはできない。むしろ、第2次大戦後55年間の中で、日本の兵士に殺された人間が地球上に1人も存在していないということの方が、僕には重く感じられるし、誇りに思える。それこそが、この国が過去の戦争という過ちの歴史から学んだことの、最大の成果だったのではないのだろうか。
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