思考過多の記録
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| 2001年03月03日(土) |
卒業(春は別れの季節) |
仕事で北の地方の学校を回った。普段の仕事では殆ど東京の職場の机にかじりついているし、ここ数ヶ月は忙しくて旅行などする暇もなかった。東京を離れるのは久し振りである 3月1日、取引先の人と車で走っていると、まだ昼前だというのに街には学制服が目立った。それを見て訝る僕に、その人は「ああ、そうか。今日は卒業式だった」と言った。ラジオからは懐かしい‘卒業ソング’が何曲も立て続けに流れていた 僕の卒業式は、どの学校でも3月の半ばだったと記憶している。地域によって違いがあるのだろうか。いずれにしても春先のこの時期、いろいろな人達、中でも学生達が人生の一つの区切りを迎える。 春といえば、柔らかい日差しと暖かな陽気が続くようになり、南からの風に誘われるかのように草花は芽吹きだし、梅の花の後を桜が追いかけるように蕾を付け、やがてくる満開の時を待つ。どこか荒涼として寂しげだった風景に少しずつ彩りが増してくる、いわば自然の衣替えの時期である。動物や虫たちも活動を始める。 そんなうきうきしてくるような季節のただ中で、新たなスタートを切るために、これまでの生活や友達と別れなければならない。それが年度が3月で切れるこの国に住む僕達にとっての春なのだ。新しい環境に変わることへの期待と不安、そしてそれまでの生活が終わり、一緒にいた人達と離ればなれになることの痛みと甘酸っぱいような寂しさ。そういうものが入り交じった複雑な気分になるのだ。これはおそらく、春という季節と別れ/新たなスタートという状況のミスマッチであるが故の絶妙のマッチングのせいである。もし僕達が全く同じ状況を秋から冬への時期や夏の盛りに向かっていく時期に体験していたら、多分もう少しクールでドライに環境の変化を受け入れていくことになったであろう。あるいは、こうも考えられる。寒い季節であれば、もしかすると別れはもっと悲劇的に思えるだろうし、新しい環境に対する期待よりも不安の方が大きく感じられるかも知れない。暑い季節であれば、高温多湿の気候は感傷に浸るという精神的作業を妨げ、全ての感覚を麻痺させるかも知れない。生物である僕達のものの感じ方や考え方は、季節によって大きく規定されている。 「卒業」というのは、人生におけるある段階が終了し、新たなステップに進むための一つの区切りである。まさに別れと出会いの間を分ける節目であり、寂しさと期待が渾然一体となった状態の顕著なものである。僕達の「春」を象徴していると言ってもいい。数年間ともに毎日を送り、喜びや悲しみを分かち合ってきた人達との関係やそこで起きた出来事は、アルバムの集合写真の中に永久に封印される。別れてしまった大部分の人間とは、おそらく一生会うことはないだろう。そして、二度と同じ制服を着ることもなければ、あの日々のように校門をくぐることもなくなる。これほど大きな環境の変化が起きることは、生涯の中でもそう多くはない。ましてや生涯のうちで最も瑞々しい感性を持っている時期である。その時に感じる切なさ、寂しさは大人の何倍、いや何十倍にもなるだろう。春という季節の移り変わりの方向は、その寂しさに甘美な装いを与える。まるでそれは、悲しみや寂しさを春という季節が優しくオブラートにくるんでくれているかのようである。それはまた、涙をそっと拭いてくれるハンカチのようでもある。しかしその一方で、それは悲しみや寂しさをより際立たせることもある。 春が来ると、僕は懐かしいあの時代と、その終わりの「卒業」と同時に失った恋を思い出す。季節が柔らかさと躍動感を増していく中でそうした感傷に浸ることができるのは、春に出会いと別れを経験する宿命の僕達にとってはささやかな幸せであり、同時にこの上なく残酷なことでもあるのだ。
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