思考過多の記録
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| 2001年02月24日(土) |
顔の見えないコミュニケーション |
以前この日記で、メールの方が手紙よりも直接相手とつながっているように感じる、という趣旨の文章を書いた。ネット人口は増えたが、当然のようにやってない人も世の中には存在してる。そういう人達の目には、ネットをやっている人間というのは、かつてのパソコン通信をやっている人種と同じ、得体の知れない存在に映るらしい。 先日、20代後半と若いにも関わらず、これまで携帯メールを含めてネットには一切手を出していない女性と話した。人間関係、特に言葉によるコミュニケーションにこだわりを持つ彼女は、ネットでのコミュニケーションに対して批判的であった。彼女曰く、ホームページにしろメールにしろ、全く面識のない相手に対して自分の内面を表出するという行為は、自分には全く理解できない。自分を表現したい(言いたいこと、考えていることを伝えいた)のであれば、自分の周囲の人間に、顔を実際に見ながら伝えればいいではないか。なぜわざわざ普段会えないような、知らない人間を相手にしなければならないのか。それに、ホームページや掲示板等で自分の意見を表明することは、伝わっても伝わらなくても構わない、どんな影響があっても関知しないという、いわば一方的な言いっ放しであり、無責任なのではないのか。 彼女の主張にはある種の誤解と偏見がある。それは、彼女がネット出現前のコミュニケーションのルールを、ネットに当てはめて考えているからだ。確かに顔の見えないコミュニケーションは不安である。匿名性を悪用した犯罪も数多く起こっているし、それがセンセーショナルに報じられ、社会問題化することもある。年齢を詐称していたがために相手と実際に会うことができず、ストーカーと化してしまった判事の妻の話は記憶に新しい。また、悪意かちょっとした悪戯心かは別として、ネット上で性別や職業を偽っている人間はこれまた星の数ほど存在しているだろう。チャットのように他愛もないお喋りを延々と続ける使い方もあるし、あまたのホームページの中には、発信する必要性をあまり感じられない情報を載せている、自己満足としか言えないところも結構多くある。だからといってネット上のコミュニケーションが全て虚偽で無意味なものだとは、僕には思えない。 ネット上で出会った人とチャットで盛り上がったりメールのやり取りをしたりするというコミュニケーションのあり方は、従来のルールでは表面的で安易な結び付き方かも知れない。もっと時間をかけてお互いを知り、じっくりと深めていくのがこれまでの顔を見ながらの人間関係だったからだ。では、顔が見えなければ人間関係を深めることはできないのだろうか。平たく言えば、メル友は親友にはなれないのか。そうだとも言えるが、必ずしもそうとは言えないというのが、現時点での僕の考えである。というのも、「親友」というもののあり方が、ネット上とその外側とでは違ってきているのだ。そのどちらかが絶対的に正しいというわけでもあるまい。それに、顔が見えていても表面的な付き合いというのは僕達の周りに氾濫している。日常の人間関係の9割方がそうだと言っても過言ではない。また、たとえ面と向かっていても、本心を隠して完璧な演技をする人は数知れない。そもそもコミュニケーション自体が「命懸けの飛躍」なのである。自分の思いがいつでも相手にストレートに届く保証はない。その困難さと、それでもつながりたいという思いは、顔が見えていようといまいと変わらない筈である。むしろ表情や仕草といった伝達手段が使えないネット上でこそ、それは顕著に現れる。だからネット上では、ある種の技術と真剣さが求められるのだ。 不思議なことに、身近な人よりも、会ったこともない人に対しての方が、素直に自分をさらけ出せるという人間は結構多い。それは一般にいわれるように「現実の人間関係からの逃避」ということではないと思う。そこにあるのは、新しい人間関係である。何故なら、「ネット」という場所にアクセスすること自体が、「関係性」のただ中に飛び込むという行為だからだ。 顔が見える生身のコミュニケーションには、ネットにはない困難さと楽しさがある。だからといって、それがネットに比べて上位にあるとか正常だということにはならない。僕はネットを通じて何人かの人と知り合い、顔を見たこともない彼(女)等とメールの交換もしている。その人達のメールを読んでいると、「嘘」が書かれていないのが分かる。その言葉からはその人の人となり(「顔」)が浮かび上がってくる。それは、とりもなおさずその人達の生の「心」と向き合っているということなのである。
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