卑屈 - 2010年06月28日(月) 母のほうの教室に来てもらっている院生のバイトがなんというか、使えない上に人の話を全然聞けない人でいつもいらいらするのだけれども、まあこちらの期待値が高すぎるのかもしれない。 それよりも毎日のこのなんとも言いようのないむなしさ、寄る辺なさ、心細さの身に沁みることよ(古文に出てくる短歌っぽく)。なぜこんなに心細いのだろう、いや、理由はわかっているのだ。時間が経てば慣れてくる。けれどもわたしは時間が経つのを待ちきれない。明日にはもう、晴れ晴れとした明るい気持ちでいたい。今日耐えれば明日は楽しい、そうであればいいのに。きっと、明日もあさってもしあさっても、しばらくずっと、この心持ちは続く、それがいやなのだ。自分の力ではどうしようもない、待つしかないこの寄る辺なさ。ただ待つしかないこの身の辛さよ(古文っぽく)。だいたい、どうすればいいのかわからんのだ。「普通の人」の考えていることがわたしにはわからない。わたしも十分「普通の人」なんだけど、わたしよりもっと「普通の人」が日々何を思い、何を食べ、何を愛し、何を忌み嫌い、何に憧れて生きているのか、わたしにはわからない。人それぞれ、本当にそう?鋳型にはめられたあの数々の個人データがわたしはやっぱりおそろしい。皆、本当はこんな鋳型にはめられた似たり寄ったりの個性なんかじゃないはずなのだ。それぞれに違うものを食べ、違うものを愛し、違うものを忌み嫌い、違うものに憧れているはずだ。なのに、皆同じに見える。もしかしたら、本当に同じなのかもしれない、と思う。だって、話してみたら、皆同じなんだもの。同じ人がたくさんいるよ。同じ人ばっかり。むなしい。早くやめたい。いつやめられるんだろう。もう明日電話しようか。明日は面談とかいろいろあって余裕がないので明後日電話しよう。もうやめます。できるだけはやく。ごめんなさい。同じことば、同じ夢、同じ趣味。そのどれとしてわたしに合致する要素がない。いや正直愕然としています。わたしってこんなに変わり者だったのか、と。こんなにも気の合う人が見つからないものなのか、と。もっと、ありふれた、「普通の人」がよかった。「普通の人」なんて世間にはいないのだけれども、あるいは皆「普通の人」なのだけれども、せまいせまいわたしの世界とシンクロする人がいない。なんていうかちょっとだけ絶望感です。いやがんばるけどさ。とりあえず子どもはもういいよ。やっぱりいらないからさ、それで別にいいむしろ歓迎って言ってくれる人っていないのかなあ?皆そんな子どもほしいの?大変だよ?ぐれるかもしれないし大学まで進学するならお金もめっさかかるし、それにね、つらい宿命を背負って生まれてくるのかもしれないんだよ。それ一緒に背負うのって、半端なくしんどいんだよ。わかる?知ってる?障害児の親が、どんなに孤独で、どんなに切羽詰まった気持ちで生きてるか、知ってる?あとね、言っとくけど子どもがかわいいのなんて小さい間だけだからね。大きくなったらいろいろ大変ですよ。ほんと。なんとなくわかってきたことがあって、そういう子育ての苦労をわたしが話し出すと、男性諸氏はこう言うのだ。「考えすぎじゃないですか?」「気負いすぎじゃないですか?」そりゃ男はそうだろう。その一言でもう、この人はきっと子どもが中学生ぐらいでぐれて深夜のコンビニの前でたむろったりしてるのを見て初めて子育てについて真剣に悩んだ末に奥さんのせいにして当たり散らしたりするんだろうなあとか思っちゃう。平和な家庭にお育ちになったんですね。わたしのような者が結婚相談所になんて登録したのがそもそもの間違いでございましたね。みたいなスイッチが入ってしまうので困る。いやまあでも実際そんな気がしてる。何か、別の手段で探そうと思う。知り合いに頼むとか。もう、こういう業者を介してどうこうするのはいいや。大変。ていうか、たぶん基本的に合わない。もっと健全な人たちが使うものなんだね、これはきっと。お呼びでない、きっとそう。ごめんなさいね。 -
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