「あたし彼女」感想 - 2008年09月26日(金) 第3回日本ケータイ小説大賞受賞作「あたし彼女」について。 どこかで聞いたことのあるような陳腐なストーリーへの軽蔑と、同時にそれらに心動かされることへの照れと羞恥が、今回のこの作品の周囲にはうずまいている。わたしもその渦中のひとりなわけだけど、それに拘泥して素直にものが言えなくなってしまうことのほうがよほど恥ずかしいことのように思うので、できる限り「ケータイ小説」への先入観とか偏見を取り除いて感想文を書いてみたいと思う。ちなみにこのコンクールの第2回大賞作品は、カンニング竹山がジャージ姿で宣伝していた例の「白いジャージ」だそうだ。どうでもいいけど。 女性のほうはかなりのパープリンであるようなので日本語の乱れはいたしかたないとして、問題は男性視点の文章だ。友人とともにCGプランニングの会社を興し、今はめでたく常務だという。そんな名実ともに一人前の男性が述懐する日本語があそこまでめちゃくちゃだと、さすがに読むほうも反応に困る。あと「やりぃ〜!」「ニャンニャン」で、作者の青春全盛期はおそらくバブル前後だったのだろうということがわかった。 そして一番「それは違うよね」と思ったのは、いろいろ揉め事があって両者の関係が深刻に冷え込んでいた時期に折りしも妊娠が発覚し、しかし過去の中絶経験に加えて現在の状況への不安やストレスから女性は間もなく流産してしまうわけですが、それに対しての後悔や反省が二人して異様に薄いばかりか「赤ちゃんはふたりを仲直りさせてくれるために来てくれたんだね」とか言い出すところ。 いやいやいやいや。 そんな都合で殺されちゃたまりませんよね。赤ちゃんも。 もちろんそれは「流産」ではなく「懐妊」を指して放たれたセリフなのだけど、しかし流産したのがわかった直後にそんなこと言われたら「流産」も込みで言っているようにしか読めない。 赤ちゃんも百歩譲って「ふたりが仲直りしてくれればいいな」ぐらい思っていたにしても、まさかそのために命まで投げ打つことになろうとは想定外だったであろう。本来ならば生まれるはずだった命を自分たちの都合(痴話げんか)で殺してしまってるわけですよ。こいつらは。そしてそれに対して、そこまで罪の意識を持ってないわけです。結果的に流産は不可避だったとしても、とにもかくにも母体を安静にして来たるべき出産に万全の体制で備えようという心積もりがこいつらには微塵もない。それはひとりの大人として、ていうか人間として、決定的にだめなのではないかと思う。 そこが残念だったところで、あとはおもしろかったです。 「みたいな」の多用が鬱陶しいとの感想もいくつか見かけたけど、ケータイ小説というジャンルの特質としてそこは寛大に見るべきと思う。 わたしはとても読みやすかったですよ。 人間らしい生々しい感情の描写がよくできているのと、時間の経過による心境の変化が要所要所にさりげなく織り込まれていたりする(恋人との望まぬ別れを強いられ失意の最中、仕事帰りの車の中で毎日なんとなくかけていたFMにある日ふと耳を傾け「いい曲だな」と思ったりする、というようなくだりが、ありがちでなおかつリアル)ので、次の展開に唐突な印象を受けることもなくすらすらと読み進めることができた。 でもやっぱり、恋人が死んだとか、赤ちゃんをおろしたとか、赤ちゃんが流れたとか、命そのものに関わる出来事はね、幸せを際立たせるためのスパイスとしては辛過ぎると思うんだよ。 本当の命を知らないから、そんなことが書けるんじゃないの? -
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