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Land of Riches
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「FF10の主人公ティーダが中澤聡太にしか見えない」という書き込みを見て、 デスクトップの壁紙をNIKEの小野伸二 vs リュングベリから差し替えました。 バカですな。黒からスカイブルーで、一気に明るくなったのですが、見れば見るほど 目元が北嶋さんに見えてくるのは、私の視力が良くないからでしょうか? (むしろティーダの性格が聡太さん似なんでしょうか? プレーしたことがないので…)
ずっと前から書くと言って書けずにいた、聡太さんと羽田さんへの手紙を、昨日、 他に出さなければならない手紙があったので、一緒に書いて出しました。 分かりきっていたことですが、言葉を選ぶのが難しいですね。便箋3枚破りました。 とはいえ、やっと出せたところで、J1はオフ(特に鹿島は約1ヶ月という長さ)へ 入ってしまうのですが。鹿島の、ファン感という名のOB戦はオフ明けにあるんですね。
さて、遅くなりましたが、関西1泊2日の旅について書き留めたいと思います。 時間の都合でセレッソの練習試合観戦は諦め、前回の神戸遠征に続き、平家物語の 史跡を巡ることにしました。移動手段は地下鉄の1日乗車券+スルッとKANSAIカード。 2日間通して、スルッとKANSAIの便利さには感嘆しました。パスネットを越えてますね。 (関東では私鉄の共通カードであるパスネットと、バスの共通カードは別物) JRのJスルーカードも近鉄で使えますし、Suicaの関西版「イコカ」はJRと私鉄の 共通になるとの話もあって、この辺は関西人は柔軟だな、と思いました。
長田駅(ナガタの変換が面倒なのに悩まされ続けたのも事実(自爆))を降り、 まずは知章と共に主・知盛を救って討死した監物太郎頼方の碑へお参り。 その討死の様から、腰から下の病に効くという俗信が起こり、今も参拝されている碑へ、 私も治らぬ足に苦しむ人のことをお祈りしてしまいました。ここではロウソクも 線香も良心にお任せといった趣で、その時は気にしなかったのですが、後で須磨寺へ 行った際に、家と家に挟まれたここのことを、唐突に思い出すはめになります。
村野工高のグラウンドをぐるりと回って、源平勇士の碑などが並ぶ川のほとりを散策。 長田に小綺麗な場所が多いのと、ここが阪神大震災で最も激しく燃えた土地であるのは 関係があると思うのですが、史跡のすぐ隣に慰霊碑があるのには、複雑な気分でした。合掌。
もともとは平家の公達を討ち取った源氏の勇士を称える碑があったんですけど、 源平並べてその勇ましくも痛ましい歴史を伝えようとした古き人の心を汲んで、 今では平通盛などいくつかの碑が並んでいるのです。知章の碑は、墓があまりに 街道から外れた場所にあり、人々に彼のなしたことが伝わらないのを惜しんだ ある古人が作ったものです。供えられた花は枯れていましたが、その他の碑も含め、 ペットボトルにはちゃんと水が入っていたのには安心しました。
前日Mapionで調べて、ここから知章の墓がある明泉寺への道は把握していたはずなのですが、 分かれ道で間違った方へ入ってしまったり、この後、私は迷子になってしまいました。 J-PHONEのJ-Naviやロコガイドや役に立つと思ったのは、今回の遠征が初めてです。 なにせ、神戸の道は坂が多いので、地図上の距離は短く見えても、実際は上がる・ 下がる・上がる・下がる・上がる・上がる・上がるといった調子で、疲れ果てました。 帰り、道を理解して駅まで戻るのに30分ぐらいだったのですが、結局、寺へ着くのに 1時間半近く費やしてしまいました。21番の青いシャツをまといさまよう女。怪しい…。 (私が初めて神戸を観光した時も、代表SOMAユニを着て北野の異人館を散策してます、そういえば)
街道沿いへ碑を建てたくなった気持ちが分かりすぎるぐらい痛感できた彷徨の末、 ようやくたどり着いた明泉寺は、閑静な住宅街の中にある小さな禅寺でした。
 奥に見える細長い柱の下、一段高くなった部分に 知章の墓である小さな小さな五輪塔があります。 左の石碑は、知章の業績を記したもの。 手前にあるのは、普通の信徒さんたちのお墓です。
武蔵守にも後れ候ひぬ。頼方も討たれ候。心細うこそなりて候へ。 ただひとり持ちたる子が、われを助けんとて、敵と組むを見ながら引き返さざりつるこそ、 よく命は惜しきものをと、我ながらも肝づれなうこそ候へ。 人のうへならば、いかばかりか知盛もどかしうも候ひなんとさめざめとぞ泣かれける。 (覚一本のセリフは表現が多少不自然なので、あえて異本から持ってきてみたり)
平家物語の一節を記した看板も隅にひっそりと立てられていて、他のお墓のお手入れを している人を見ながら、一般人の皆さんと共に静かに…最低限の敬意だけを受けながら 静かに眠っているだろう様子を見て、飾らない男だった知盛の息子である彼には お似合いの墓ではないかと思いました。彼は「孝子」という肩書を頂戴しているのですが、 それゆえに墓があり、守られている彼は、公達の中では幸せな方なんですよね。 もっと若い公達だって、一の谷の合戦では命を散らしているのに…師盛とか。
山陽電鉄・須磨寺駅へ降り立った時、自分が浮いているのを痛感しました。別に 巣鴨を歩いたことはないのですが、まさに年齢層の違う中へ独り放り込まれたような。 須磨寺は歴史ある寺で、お参りの対象も数多くあるのですが、それ以上にすごいのが 駅前から境内の奥深くまで浸食した露店の数々。それも全てオバサマ向けで、ぶっちゃけ 私なんぞは全く買う気を起こさない品揃え…(笑)露店の裏へ回り込まないと探している 対象が見つからなかったり、線香が3本10円で(しかも機械で着火され)売られているのを 見たりすると、なんだか悲しくなりました。皆さん熱心にお参りしていらっしゃるのですが、 やはり俗っぽくて、私が神社仏閣巡りで求めている雰囲気とは、どうも違ったのです。
 敦盛の首塚は、それでも、奥まった場所で 多少は喧燥から離れていて、救われました。 胴体は一の谷の、また別の塚で供養されてます。
長くなってしまいましたし、日付も変わったので、続きは月曜付で。
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