橋本裕の日記
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| 2007年10月07日(日) |
夕べに死すとも可なり |
小学生の頃、空に浮かぶ雲に乗ってみたいと思ったことがある。私は雲が水蒸気の塊で、その上に乗ることができないことは知っていた。私はたちどころに地上に落下し、死んでしまうだろう。それでも乗ってみたいと思った。
子どもの頃の私がどうして自分の命までかけて「雲に乗りたい」と思ったのか、今の私には理解できない。しかしそうした強力な感情を持ったことを、私は思い出すことができる。それはなんだか、ひりひりするような、焼け付くような欲望だった。
中学生になって、私は今度は「月面に立ちたい」という渇望を覚えた。月面には空気はなく、呼吸できないのでたちどころに死んでしまう。それどころか、真空だと圧力もないので、私の目は飛び出し、皮膚は破裂し、血液は瞬間的に沸騰するだろう。
SF小説に熱中していた中学生の私には、月面に立つとどうなるのか理解していた。それでも、その一瞬の死の間際に、月面の世界を見ることができる。そしてその一瞬のため、死んでしまってもかまわないと思った。
さすが高校生になって、私はそんな無邪気な考えを捨てた。もはや命を犠牲にしてまで雲に乗りたいとも、月面に立ちたいとも思わない。そのかわり、私はもっと別のものに憧れるようになった。それは「人生の真理」について知りたいと思ったのである。
「論語(里仁篇)」に、「朝に道を聞かば、夕べに死すとも可なり」(朝聞道、夕死可矣)という孔子の言葉がある。「朝に真理を知ったなら、もうその日の夕方死んでもかまわない」というこの言葉に、私は強く引かれた。
その頃の私は、真理というものは啓示のようにして天から与えられるものだと考えていた。もしその神秘的な啓示によって、人生の真理が私の心にあきらかになれば、もうそれだけで満足である。たとえその日のうちに死んでしまってもかまわないと、ある瞬間、本気でそう考えたことがあった。
現在の私は、こうした心境からはずいぶん遠くにいる。自然界の神秘にも、人生の真理を探求したい気持もないではないが、それに命をかけようなどとは思わない。神様も仏様も、基本的には信じていない。そもそも人生に意味があるのかどうかさえ疑っている。
それでも、散歩していて美しい雲を見ると、ふと童心に返り、昔の憧れを思い出す。月を見れば、かすかに心が動く。そして「論語」の孔子の言葉をつぶやいていると、心が美しく澄みとおるようで、なんだか朗らかな気分になる。
(今日の一首)
初秋の河原にそそぐ日のひかり 小石の影も鮮やかに見ゆ
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