橋本裕の日記
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あれはいつのころだったのか、小学生の高学年だったと思うのだが、「人はみんなお芝居をしているのではないか」とふと、疑問に思ったことがある。その頃の考えでは、「お芝居をする」というのは、「本心を隠して、嘘をつく」というくらいの、ネガティブな意味だった。
そんな疑問を持ったのは、私自身が「お芝居」をして、人をだましてばかりいたからだ。そして自己不信がやがて他者不信となり、回りの人間がみんなお芝居をして生きているように見えたのだろう。
この「みんなお芝居をして生きている」という思いは、それから折に触れて、私の中によみがえり、強化されていった。そしてそんなことを考えているのは、自分だけでないことを知った。シェークスピアもくり返し「人生は舞台で、我々はその役者だ」と登場人物に語らせている。
「人生は舞台だ。ひとはみな役者」(お気に召すまま) 「人生は歩きまわる影法師、あわれな役者だ、舞台の上でおおげさにみえをきっても、出場が終われば消えてしまう。」(マクベス)
このシェークスピアの言葉に出会って、大いに我が意を得たりと思ったものだ。そして、「みんなお芝居をしているのだから、自分もお芝居をすればいいのだ」と思うようになった。そしてそうした眼でまわりの人たちを見渡すと、なかなかどうして、たいした俳優たちではないか。
そこで、私も人生という舞台で演技力を磨き、できることなら名優といわれる役者になってみたいと思うようになった。鏡の前で表情を工夫してみたり、歩き方とか話し方にも気を使い、なるべく魅力的なキャラを演じる努力をする。そしてみんなと一緒にお芝居をして、このつかの間の人生を楽しもうというわけである。
こうなるともう、「人生は舞台だ」という意味は、「人間不信」といったネガティブなものではなくなっている。私たちはそこから、人生に対するポジティブな姿勢さえ導きだすことさえできる。
どんなつらい状況に置かれても、「ああ今自分は、その辛い役を引き受けて演じているのだ。それなら、精一杯その役を立派に演じて見せればよい」と考える。そうすると、不思議にそのつらいことさえ、たのしめるようになる。自分というものをすこし突き放して、客観的に眺められるからだ。
世界という大きな舞台で、私たち一人一人は多くの場合、しがない脇役である。日のあたらない日陰の役かもしれない。しかし、たとえ脇役でも、その与えられた役を精一杯演じればよい。脇役に名優ありという意気込みで、自分の演技に磨きをかけてはどうか。こんな風に前向きに考えて生きてみてはどうだろう。
小学生の頃、ふと生じた疑問からはじまった私の「人生は舞台だ」という思想は、こうして私の中で次第に成熟し、ひとつの人生哲学にまでになった。しかし、役者としての私は、いつまでも二流である。おそらくこのまま、不器用な大根役者として、舞台の端っこでまごまごしながら生きて行くのだろう。
人生芝居 人生は筋書きのないドラマ、 私たちはみんな役者だ。 筋書きはみんなでつくる。 そしてみんなで演じる。 時には善人になり、人を助け、 時には悪人になり、人を貶める。 すべては、めぐりあわせ。 嘘つきがいて、正直者がいる。 美人がいて、不美人がいる。 主役がいて、端役がいる。
いろんな役者がいて、 面白いお芝居ができあがる。 みんな一人ひとり、 かけがえの役者なのだ。
運不運も、つらい試練も、 すべてはお芝居だとおもって、 その役をちょっと気取って演じてみる。
悲しいときは、悲しい役を楽しみ、 嬉しいときは、嬉しい役を楽しむ。 そんな心がけで生きていけば、 こころが少しだけ軽くなる。 どんな人生でも それなりに面白い。 (今日の一首)
大空をはるばるとゆく白鳥の すがた爽やかこころ慰む
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