橋本裕の日記
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| 2007年10月04日(木) |
生かされて生きる人生 |
42歳の頃、父を亡くし、それからしばらくしてから「自伝」を書き始めた。毎日、500字くらいを4年間書き続けた。こうして「幼年時代」「少年時代」「青年時代」「就職まで」の4部作を完成した。
「自伝」を書いてよかったことがある。自分を振り返り、自分がいかに多くの存在に守られ、支えられて生きて生きたか、そのことに気づいたからだ。自伝を書きながら、自分は何と幸せ者だろうと思った。
それまでの自分は、大学や大学院に合格できたのも、難関だった教員試験に合格できたのも、すべては自分の才能と努力の結果だと思っていた。
ところが日記を書いていて、この認識が崩れた。自助努力の部分はむしろわずかで、むしろ私が「幸運な偶然」と呼びたくなるような「ご縁」のおかげが大きいことに気づいた。私の人生を織物に例えると、それは様々な人々との出会いによってもたらされた「ご縁」の糸によって紡がれていた。このことが痛いほどわかった。
仏教ではこうした人生のあり方を「因縁」という言葉で説明する。人生は因果論が支配する必然の糸だけでできているのではない。これを縦糸とすれば、もうひとつ「縁起」という自己を越えた偶然性に支配された横糸が重要である。この必然と偶然という二つの糸で独特の形に紡がれたのが私の人生であったわけである。
たとえば、私が大学で物理学を専攻し、理科の教師になったのは、私が中学1年生のとき出合った井上さんの存在があったからである。福井大学の物理学科の学生である井上さんが私の家に下宿したのは本当に偶然である。しかし、私は彼から物理の面白さを学んだ。
美しき未知の世界や物理学
彼は半紙に筆でこう書いて、床の間に掲げていたが、中学生の私はそれを眺め、彼から自然科学の魅力を学んだ。井上さんとの出会いがなければ、私の人生は別のものになっていただろう。
これは一例で、私の人生はこうした偶然な出会いによって紡がれてきた。もちろん私自身の努力もあったが、よく考えてみれば、私が努力家になれたのも、こうした人々の支えや励ましがあったからだ。
こうした視点から書いたのが、「人間を守るもの」という300枚ほどの文章である。これを4ケ月ほどかけて、毎晩2時間ほどパソコンの前に座り、こつこつと書いた。
ハイデガーや道元、親鸞など、古今東西のさまざまな書を引用して、かなりむつかしく書かれているが、その主張を要約すれば、「人はいろいろな存在に支えられ、守られて生きている」ということである。
これを書いたことで、自分の思想的立脚点がさらにはっきりした。政治や経済についてもはっきりとした視点が得られ、こうして「橋本裕の経済学入門」「共生論入門」がかかれ、「何でも研究室」に置かれているさまざまな論文がいまも書きつがれている。
こうして考えてみると、45歳の頃から4年間を投じて「自分史」を書いたことが、その後の自分の人生を変える転換点だったのだろう。そしてここにも、「父の死」という偶然が関わっている。
この話をある人にしたら、「必然と偶然の割合は?」と聞かれた。私の答えは、「必然が1とすれば、偶然が9かな。そもそも必然も偶然の賜物だし、その逆もいえる。この二つの糸は不可分に綯い合わされて人生の織物を作り出しているのでしょうね」というものだ。
偶然も仏教ではたんなる偶然ではない。それは「ご縁」なのだ。「袖摺りあうも多少の縁」というときの「ご縁」である。これをより高次な必然、すなわち天の配剤と考えることもできる。私たちは親鸞のいう「絶対他力の世界」に生かされているのかも知れない。 (今日の一首)
稲の穂の黄金に熟れてほのかなる かをりただよふ野中の小径
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