橋本裕の日記
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高校3年生のとき、僧籍にある教頭先生から「歎異抄」について、毎週1時間ずつ講義を受けた。そのとき、浄土真宗の教えとともに、親鸞聖人の生涯についてもエピソードを交えながら、いろいろと学んだ。
親鸞は29歳の時に比叡山を下り、京都の吉水にあった法然の草庵(現・安養寺)を訪ねる。この時、法然は69歳だった。そして法然のもとで専修念仏の教えを学ぶ。これは念仏を唱えるだけで、万人は成仏できるという教えだった。成仏に難しい学問や苦行はいらないというありがたい教えである。
なぜ、ただ念仏だけで成仏できるのか。それは「いきとし生けるのものは本来仏だから」というのが理由だ。仏教ではこれを「仏性」という。すでに私たちはだれもが等しくそのような尊い宝をいただいている。そのことに覚醒するには、むつかしい理屈はいらない。ただ素直にそのことを喜び、「南無阿弥陀仏」と唱えればよい。大切なのはこの「信心」である。法然の教えを聞いて、親鸞は感激した。
法然の専修念仏の教えは庶民ばかりでなく、貴族の間にまで広がった。しかし、ただ念仏をとなえるだけ成仏できるというのは、既成の教団にとっては許しがたいことだった。彼らは高尚な理屈を開発して、教義をことさらむつかしくさせていた。彼らにとっては成仏がそれほど簡単であっては困るのだ。成仏を願う人々からの寄進がなくなれば、教団の経営に支障をきたす。
こうした既成仏教の訴えをうけて、1207年、政府が弾圧に乗り出した。専修念仏は禁止になり、法然は土佐国(高知県)へ、親鸞は越後国府(新潟県)に配流された。僧籍を剥奪された親鸞はこれ以後自分を「愚禿親鸞」と名乗ることになる。
越後で親鸞は結婚し、子を設けたようだ。そして流罪より5年後、法然とともに罪を赦されたが、親鸞は京に帰らず越後にとどまった。その3年後の1214年に、妻の恵信尼や子供と共に、越後から関東の稲田(茨城県笠間市稲田)に移り住んだ。
彼は45歳〜65歳までの20年間をこの地で布教活動をし、主著「教行信証」の草稿を作成した。しかし、親鸞の布教活動は当初さまざまな困難を伴っていた。たとえば山伏たちに反感をもたれ、命まで狙われた。
親鸞を亡き者にしようという急先鋒が弁円という山伏だった。ある日、彼は聖人が住んでいた稲田の草庵に押し入った。ところが、彼を迎えた親鸞の柔和な表情に接すると、振り上げた刀が打ちおろせなかった。
弁円は親鸞の大きさを知り、その場で自らの罪をわび、親鸞に弟子入りした。そして親鸞から明法房証信という名をもらって、高弟のひとりとなって親鸞の教えを関東に広めたという。
なぜ弁円は改心したのか。それは親鸞が善き心、つまり「仏性」をこの荒くれた山法師のなかに見出していたからだ。親鸞は逆上して押し入ってきた彼を、あたかも仏を迎えるようにしてうやうやしく迎えた。弁円もまたそうした親鸞のなかに、まことの仏者を見出した。この唯仏与仏の出会いが、弁円を変えたのだろう。
それにしても、「私を殺しに来る者もまた仏である」という覚悟は、私たち凡夫にはできるものではない。教頭先生からその話を聞きながら、高校生の私も「親鸞聖人はすごい人だな」と感心するしかなかった。
浄土真宗の僧侶だった教頭先生が、法華経の「唯仏与仏」という言葉を口にしたとは思えないが、先生の口から「仏性」という言葉はたびたび聞いた。しかし、この言葉のほんとうの意味や素晴らしさを実感できるようになったのは、最近のことである。
(今日の一首)
人はみな仏なりけりそよ風も ありがたきかな南無阿弥陀仏
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