橋本裕の日記
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小学5年生の頃、田舎から出てきた祖父に連れられて、「釈迦」(1961年)という映画を見に行った。娯楽映画だからどこまで正確かはわからない。しかしこれを見て、私は釈迦のおおよその生涯を知った。
シッダ太子には提婆達多(ダイバ・ダッタ)という従兄弟がいる。彼はつねにシッダ太子に対抗心を抱いている。すぐれた才能を持ちながら、自分よりすべてにおいて優秀な釈迦が許せない。とくに自分が好きだった女がシッダ太子と結ばれたことが許せない。
ダイバはシッダ太子が妻子を捨てて出家したあと、策略を弄して妃を犯し、妃は自殺した。この悲報は修行中のシッダ太子のもとにもたらされたが、シッダ太子はくじけず、六年の間、苦行を続けた。そしてとうとう菩提樹のもとで悟りを開いて、仏陀となった。
鹿野苑の仏陀のもとには、教を乞う人達が全国より集って来た。仏陀の噂を聞いたダッタは、ますます対抗心と憎悪を募らせる。バラモン行者に弟子入りして、そこで厳しい修行を積む。そしてこの行者から神道力を授かるや、ふたたび釈尊への執拗な攻撃を開始する。
ダイバは何とか釈迦を亡き者にしようとして、仏陀の一行を待ち伏せして巨岩を上から落したり、巨象をけしかけたり、マガダ国のアジャセ王子に近づいて、クーデターを起こさせ、仏陀を信奉していたビンビサーラ王と王妃を幽閉し、ついには国王を殺害してしまう。
ダイバは新国王となったアジャセをあやつりバラモンの大神殿を建造させ、仏教徒に対する迫害と処刑を図った。そしてついにはアジャセに国王殺しの濡れ衣をきせ、彼にかわっては自らマダカ国王としての宣言までおこなう。しかしまさにそのとき、大地震とともに神殿が崩れ、ダイバは足元に開いた巨大な穴の中に消えた。勝新太郎がこのダイバ・ダッタを好演じていた。
映画だからかなり脚色されているのだろうが、7世紀初頭にインドを旅行した玄奘は、ダイバ・ダッタが堕ちていった穴について、まだ残っていると報告している。現在も残っているのかどうか、定かではないが、一度その場所を訪れてみたいものだ。
ダイバ・ダッタはその後、地獄界から這い上がり、四天王に生まれ変わるのだという。もっともこれは「増一阿含経」に書かれている内容で、「法華経・提婆達多品第十二」には、提婆達多はじつは釈迦が前世において法華経を教えてくれた師匠であると説かれている。現代語訳を引用しよう。
「提婆達多という恩人のおかげで、私は、菩薩になるための六つの行を完成し、慈悲喜捨という他者に対する深い心を身につけ、三十二種の吉相や八十種の福相を得、金色に輝く身となり、すべての物事を正しく見る十種の英知の力と、何も恐れず法を説ける四種の勇気と、衆生を大きく包み込む四つの徳行と、仏だけが持つ十八のすぐれた特質と、何でも出来る神通力を、すべて完全にそなえることができました。こうして仏の悟りを成就して、ひろく衆生を救えるのも、すべて提婆達多という恩人のおかげなのです。その提婆達多も、この世を去ってから数えきれないくらいの年月を経たのち、仏の悟りを得るでありましょう」
http://www7.inforyoma.or.jp/~chance/ao/15.htm
つまり釈尊は自分を殺そうとして大悪人を「恩人」とまで呼んでいる。そして彼も将来は成仏して天王如来となるのだという。ここから「悪人成仏」という解釈がうまれてきた。現代語訳を拝借したサイトから、ついでにその解説の一部も引用しよう。
<提婆達多というのは、お釈迦様にとってはいとこに当たる人物なのですが、人間的にはいろいろと問題があり、ついにはお釈迦様を殺害しようとまでした極悪人として知られる人物です。
法華経の大切な教えの一つは、すべての人間の中には平等に仏性があり、それを自覚して菩薩行を積んでいけば誰でも仏に成れる(仏の悟りを得ることができる)ということなのですが、その教えの究極の事例が、提婆達多も将来には天王仏という名の仏に成れると記別を授けたこの品なのです。
つまり、お釈迦様の教団の中の人々にとっては、「あの極悪人の提婆達多ですら仏に成れるのなら、誰でもが仏に成れるはずだ。もちろん自分にも・・・。」と思えるわけであり、仏性の平等性というものが明確に理解できるわけなのです。 ところが、お釈迦様が提婆達多について語ったことは、単に提婆達多でも仏に成れるのだというような話を超えて、提婆達多のお陰で自分は仏に成れたのだとまで説かれたのです。泥土の中から美しい蓮の花が咲き出すように、人間の悪の側面に接したことも悟りの花を咲かせる契機に変えてしまうお釈迦様の智慧が読み取れます。最後の「蓮華より化生せん。」は、そういう意味の比喩でもあるのでしょう>
http://www7.inforyoma.or.jp/~chance/ao/06.htm
法華経にはダイバ・ダッタが釈尊を嫉妬し殺そうとしたなどとは一行も書かれていない。したがって現代の仏教学ではこの点が疑問視されているようだ。しかし昔から法華経を読む人は、提婆達多が釈迦に反逆した大悪人だという前提で読んでいる。そして自分の敵を許すばかりか、自分に法を教えてくれた恩人だとまでたたえる釈尊に、はかりしれない仏の慈愛の深さを感じたわけだ。
(今日の一首)
盲目の愛はかなしいさすれども 愛のない知はもっとさびしい
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