橋本裕の日記
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2007年09月20日(木) 良寛と船頭

 すべての生きるものは、仏の悟り(本覚)を持っている。空海はこのことを「即身成仏」と表現し、仏教の根本義だと考えた。彼は「弁顕密二教論」に「一切衆生は、無始よりこのかた、皆、本覚あって、捨離する時なし」と書いている。

「即身成仏」はやさしく言えば「生き仏」である。まさしく空海は「生き仏」だった。親鸞も道元も日蓮もそうかもしれない。しかし、私の心に「生き仏」としてあざやかに思い浮かぶのは、江戸時代に越後に生まれた良寛さんだ。

 良寛は出雲崎の名主の長男に生まれたが、18歳で名主見習いになったあと出家した。22歳のとき故郷をあとにし、瀬戸内海に面した円通寺で国仙和尚に師事し、33歳のとき印可を受けた。その翌年、国仙が没すると、良寛は諸国放浪の旅に出る。

良寛が故郷の越後に戻ったのは39歳の頃だった。国上山の五合庵に十数年間棲んだのち、ふもとの乙子神社の草庵に十年、そして69歳の冬に木村家の庵室に移り、そこで74年の生涯を終えている。そのあいだにたくさんの漢詩や和歌をつくり、手紙を残している。

 この里に手まりつきつつ子どもらと
 遊ぶ春日は暮れずともよし

 良寛は子どもと手まりをついて遊ぶのが好きだった。かくれんぼも好きだった。日が暮れて子どもたちが帰った後も、ひとりだけいつまでも稲塚のなかに隠れていて、明くる朝、村人に見つけられたという話も伝わっている。

 私は良寛が好きで、国上山の五合庵あとにも行き、木村家も訪れて、良寛のたくさんの書や遺品をみせてもらった。木村家の当主の方から、木村家につたわっている良寛の逸話なども直接きいて、感激をあらたにしたものだ。

 良寛が托鉢にくると子どもたちは喜び、大人もほのぼのとした気持になったという。争いの絶えない家でも、良寛が二、三日泊まっていくだけで、家の中が平和になり、良寛が帰った後も、すがすがしい余韻がしばらくは続いた。

 しかし、村人の中には、そんな良寛をよく思わない者もいた。誉れの高い国仙和尚の下で修行し印可を受けたというのに、良寛は寺の住職にもならず、経を唱えることさえしない。ありがたい説教をするでもなく、托鉢のあいまに子どもと遊び、ときには家にあがって楽しげに物を食い、酒までのんでいく。

書が立派だというので、江戸の文化人にまで一目置かれているが、それも好きで書いているだけで、よく考えてみれば、遊び人であり、穀潰しである。こんな乞食坊主のどこがいいのか、うさんくさい目で良寛をながめ、敵意をもって良寛に近づく者もいた。

渡し守の船頭がそうだった。彼は大酒のみの乱暴者で、村の嫌われ者だった。だから、よけいに評判の良い良寛が目障りでたまらない。いつか、良寛を痛めつけてやろうと機会を窺っていたが、ある日、良寛がひょっくり乗せてくれとやってきた。

チャンス到来である。船頭は良寛を乗せると、川の真ん中まできて舟をゆらしはじめ、良寛を川に落とした。良寛は泳げない。水を飲み、溺れてもがいている良寛を、船頭はしばらく愉快そうに眺めていた。

そうして、良寛がぐったりしたところで、船べりに良寛を引き上げた。それから手馴れた手つきで、良寛の胸を押さえ、水を吐かした。良寛はそれでようやく息を吹き返した。船頭が驚いたのは、やっと声が出るようになって良寛が最初に口にした言葉だった。

「ありがとう。あなたは命の恩人だ。このご恩は一生わすれません」

船頭にはこのひと言が、まったく意外だった。川に落とされ、おぼれて死にそうになったのに、良寛はお礼の言葉しか口にしない。しかも、命を助けられたことを、子どものように喜んでいる。これを見て、船頭の心が動揺した。良寛をうらむ気持がふいに遠のいた。

良寛は船頭が自分を恨んでいることを知っていたのに違いない。この男の舟に乗ればどうなるか、先刻承知だったのだろう。それでも舟に乗った。良寛とて人の子である。怖かったに違いない。そして案の定、川に落された。もがいているうちに水を飲み、もう駄目かと、あきらめた。

良寛は友人にあてた見舞いの手紙のなかで、「死ぬ時節には死ぬがよく候」と書いている。今がその死ぬ時節かも知れない、と覚悟したかもしれない。ところが、船頭は良寛を舟に助け上げてくれた。良寛はうれしかった。そして真心から船頭に「ありがとう。命の恩人だ」と言った。だから良寛のこの言葉に嘘はなく、真実の響きがこもっていた。

船頭はこれまで村人からうとまれ、嫌われ続け、自分でもいやな、人間のクズだと思っていた。ところが良寛はそんな自分の舟に進んで乗ってくれた。しかも、そのあと水に落されて、溺れ死にそうになるという侮辱をうけた。ところが「命の恩人だ」と感謝してくれる。何だかとんでもない善行をほどこしたような気分がする。

船頭にとって、これは思ってもみない体験だった。そして、このことが、村一番のすね者のかたくなな心をやわらげた。それどころか、良寛にたいする尊崇の念さえ萌した。これはどうしたことか。船頭は良寛に感謝されて、自分のなかに眠っていた良心を呼び覚まされた。良寛は一切衆生を仏と信じている。その一途な信仰が、相手の心に仏心を呼び覚ましたのだろうか。

良寛にはこうした逸話が数多く残っている。どんな仕打ちを受けても、決して非難しない。たとえ殺されそうになっても、相手を恨まず、仏教の因果の道理に照らして「死ぬ時節だ」と思い切る。そして、何事にたいしても「ありがとう」と合掌礼拝する。これが良寛の「騰々、天真に任す」生き方だった。

(今日の一首)

 障子ごし虫の声きく夜明け前
 ありがたきかな良寛の書見る


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