橋本裕の日記
DiaryINDEXpastwill


2007年09月17日(月) 愛語教育のすすめ

人間にとって何が大切か。その中の一つに私は「自尊心」を加えたい。自尊心があれば人は悪いことができない。利己的な生き方もできない。いつも愛情をもって他者のことを考え、他者にたいしても寛容な姿勢で接することができる。

自尊心のある人間は、格別自分が尊敬されたいとは思わない。他人の目や評判を気にすることもない。他人から尊敬されたいと思うのは、自分に自信がないからである。自信や自尊心の欠如が、他人の賞賛をもとめる。本当に自尊心がある人は、あえて賞賛を求めようとは思わない。

いま学校や社会で「いじめ」が横行している。これも自尊心の欠如である。自尊心があれば他人をいじめたりしない。むしろ他人を助けたり、ささえたりすることに喜びを見出す。なぜなら自尊心は、自分が他人や社会のために役立っているという意識から生まれるからである。

したがって、「自尊心をはぐくむ教育」が大切である。それではどうしたら自尊心をはぐくむことができるのか。それは子どもたちに一人ひとりがかけがえのない存在だと実感させることである。だれもが生まれながらに「仏性」というすばらしいものを持っている。それを自覚させればよい。

自尊心は他人から信頼され、愛されることで大きく育つ。だから、相手を認めて、褒めてやらねばならない。愛情を注がなくてはならない。しかし現在の教育は、はたして自尊心を育てることに成功しているだろうか。自尊心の育成に必要な愛情の教育を実践しているだろうか。

残念だが私にはそうは思えない。競争原理のもとで差別と選別にあけくれる教育は、人々の心のなかに人間不信と劣等感を育て、自尊心を破壊している。だから、学校や社会で「いじめ」が横行する。これと対照的なのが、次の道元禅師の説く「愛語教育」である。

「愛語と云ふは、衆生を見るにまづ慈愛の心をおこし、顧愛の言語をほどこすなり。徳あるはほむべし、徳なきはあはれむべし。愛語は愛心よりおこる。愛心は慈心を種子とせり。愛語よく廻天の力あることを学すべきなり」(正法眼蔵)

良寛はこの「愛語」を書き写し、また日々の生活の中で実践していた。そして法華経に登場する常不軽菩薩を尊崇して、こんな和歌を詠んでいる。

僧はただ何もいらず常不軽菩薩の行ぞ尊かりける

常不軽菩薩は、人に会えば必ず礼拝をして、「我敢へて汝等を軽しめず。汝等皆当に作仏すべきが故に」と、衆生の心に宿る仏心を目ざめさせようとした。人々が杖木で打ち、瓦石を投げてののしると避けて逃げるが、なお遠くから礼拝することをやめなかったこの尊い菩薩こそ釈迦仏の前身であったと経は説く。

教師や両親も、子ども一人ひとりのよさを認め、その美質を礼賛するこの常不軽菩薩の心が必要なのではないだろうか。これによって子どもの心に自尊心が育つ。人は自分が愛情につつまれ尊敬されることで、他人を尊び慈しむよろこびを学ぶ。

こうした慈愛教育に恵まれることで、子どもの心はおおきく育つ。反対に批判されたり、暴力的にしつけられた子どもは自尊心をもてず、他人を愛することもできなくなる。ドロシー・ローノルトさんの「子どもが育つ魔法の言葉」から引用しよう。

批判ばかりされた子どもは
非難することをおぼえる

殴られて大きくなった子どもは
力にたよることをおぼえる

笑いものにされた子どもは
ものを言わずにいることをおぼえる

皮肉にさらされた子どもは
鈍い良心のもちぬしとなる

しかし、激励をうけた子どもは
自信をおぼえる

寛容にであった子どもは
忍耐をおぼえる

賞賛をうけた子どもは
評価することをおぼえる

フェアプレーを経験した子どもは
公正をおぼえる

友情を知る子どもは
親切をおぼえる

安心を経験した子どもは
信頼をおぼえる

可愛がられ抱きしめられた子どもは
世界中の愛情を感じ取ることをおぼえる

http://219.121.16.30/blog/archives/000062.html

 いま、愛国教育や道徳教育の必要性が叫ばれている。そして剣道や柔道を中学で必修化するのだという。しかし、いつの時代にあっても、子どもに必要なのは「愛の教育」ではないか。これによって自立心と自尊心を育てることが大切である。自尊心が育てば、公徳心も、郷土を愛する心も自然に育つだろう。

(今日の一首)

 にわか雨わきを駆け行く少女あり
その足音も雨に消えたり


橋本裕 |MAILHomePage

My追加