橋本裕の日記
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2006年10月01日(日) 自我愛と自己愛

 フロイトは人間の心は意識的な部分と無意識的な部分からできていると考えた。そして「自我(エゴ)」というのは、このうちで意識的な部分の中心である。人はみな自我をもち、これによって現実を認識し、さまざまな行動を起こし、現実に適応している。しかし、自我は心のすべてではない。たんに意識的な部分の中心でしかない。

 ユングによれば私たちの心の意識的な部分と無意識的な部分もふくめて、その中心に位置する存在として「自己(セルフ)」がある。つまり自我ではなく自己こそが、無意識的な領域もふくめた私たちの心のほんとうの中心だというわけである。

 自我がつねに現実的な自分の立場にたち、利己的で打算的な傾向をもっているのに対して、自己は自我の枠をも越えた大きさと深さをもっている。自己は自我の偏狭さを乗り越え、外的現実性以外の内的現実性も受け容れて、精神内界のイメージや情緒の意味を読み取ろうとする。そして意識と無意識を統合して、より豊かな精神世界に生きようとするわけだ。

 私たちは「自我中心」ではなく、もう少し高尚な「自己中心」の生き方をめざすべきだろう。自分中心の利己的で打算的な自我愛ではなく、慈愛と叡智にみちて、他者をも包摂する広大な自己愛をめざしたいものだ。そうすれば自我中心の欲望や打算にふりまわされるのではなく、もっと自己実現的な本来の人生を生きることができる。

「自我愛と自己愛」について、かって「空」さんにすてきな詩を私のHPの掲示板にプレゼントしていただいた。この詩から私たちは多くのことを学ぶことができそうだ。自己愛が人間のしあわせにとってどんなに不可欠なものであるかもわかる。少し長くなるが、全体を引用させていただこう。
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 自我愛と自己愛

私たちは記憶を失った
神としてこの世に生まれる。

親に育てられる過程で
私たちは神ではないと教えられる。

赤ちゃんの頃は純真無垢で
無償の愛が与えられる。

だんだんと成長する過程で
人間のルールを教えられる。

神ではなく人間として
扱われているうちに
自我が生まれる。

自我は一種の狂気から生まれた。
神が人間として
この世界で暮らそうとする狂気から。
いわば多重人格である。

自我が成長していくと
自分には限界があって
神とは分離していると
感じるようになる。

そして自我こそが自分であると
確信するようになる。
そして自我自身が
自己防衛本能を持つようになる。

自我の防衛本能は
自分の肉体の生存を守るため。
そして自我自身の主役の座を
守るために機能する。

自我は自分に
自分が神であることに
気づかせないようにする。

世の中には危険がいっぱいで
何かが不足していて
自我がないと生きていけない。
自我はネガティブな考えを植え付ける。

だからこそ自我を大切にしよう。
いわゆる自我愛が生まれる。

自我を傷つけられたら
防衛本能から傷つけ返す。
そのことを正当化した。
自我愛故に。

自我と自分を混同しているからこそ
苦しみがあるのだが
その原因を他の人や
環境のせいにすることを学んだ。
自我愛故に。

自我は自分のことしか考えない。
自分さえよければそれで良い。
自己防衛本能故に。
そして自我愛故に。

傷つけ傷つけ合うのが
当たり前の世界。
それが自我の支配する世界。

でも中には
自分が神であることに
気がつく人もいた。

自我はこれをとても危険視し迫害する。
キリストが十字架にかけられたように。

自分の中の神性や仏性に気づいた人は
自分の中の宝物を愛するようになる。
いわゆる自己愛が生まれる。

自我は人を愛せない。
自我は本当の自分を愛してないから。
自我の防衛本能だけで動いている。

自己愛に気づいた人は
他の人の神性や仏性に気づく。
そして自己を愛せる分だけ
他者を愛することができるようになる。

自我も他者を愛しているように
見えることがある。
しかし、上手くいかない自分への愛を
他者を通して得ようとしているだけ。
結局自分さえよければいいのだ。

自己愛に目覚めた人は
自分が守られていることに気づき
危険はなく不足もないことに気づく。
怖れはなくなり
ただ感謝すればいいことを学ぶ。

まだ気づいていない人のために働き
奉仕することを喜びとする。
自己愛に目覚めることだけが
この世の救いだからだ。

自我は必死に自己愛に抵抗する。
自分の主役の座を奪われてしまうから。
世の中に争いごとを生み出し
恐怖心を煽る。
恐怖心こそが自我愛を正当化する。

自我はひかりがこわい。
やすらぎがこわい。
それでいて欲しい。
そのジレンマをかかえている。
それ故に自分を必要以上に正当化する。
それこそが自我愛の原点だ。

自己愛に目覚めた人は
いつの時代でも少数だった。
聖人とされたが
教えは曲解された人。
悪魔と罵られた人。
有名ではなく周りの人から
愛し愛された人。
殺された人。

しかしなくなることはない。
自我が勢力を持ちすぎれば
堪えきれなくなって
疑問を持つようになる。
そして本当の自分に気づく。

人間は本当は神。
それに気づくだけで救われる。

これだけのことを
長い間成し遂げられないできた。

しかしいつの日かきっと
終わる日も来る。

それは真実のひかりに包まれていることを
私は信じている。

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