橋本裕の日記
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「こころ」を手持ちの和英辞典でひくと、mind(知性や理性を主に考えた心)、heart(気持や感情を主に考えた心)、spirit(精神)とある。具体例をみてみよう。
I've made up my MIND to go to graduate school. (大学院進学を心に決めた)
She has a kind HEART. (彼女はやさしい心の持ち主だ)
It's not easy to grasp the SPIRIT of the tea ceremony. (茶の心を掴むのは容易ではない。
日本語には「たましい」という言葉がある。これを辞典で引くと、「soul」という英語が当てられ、次のような例文が紹介されていた。
The sword is the soul of the samurai. (刀は武士の魂である)
A man's body dies, but his soul exist for ever. (人の肉体は滅びるが、霊魂は永遠に存在する)
日本語の「こころ」は、おおかた人間の脳神経を中心にした意識現象で、理性や感情、意思、理念といった意味で用いられている。これに対して、「たましい」というのは、霊魂ともいわれるように、もう少し奥深くて宗教的なひびきを持っている。
古代の人々がこうした「たましいの世界」に住んでいたことは、現在に残る東西の文学遺産をみればあきらかだろう。日本の場合は「万葉集」の世界がまさにこの霊的なものに満ちている。
信濃なる千曲の川のさざれ石も 君し踏みてば玉と拾はむ (巻14−3400)
(別れ際にあなたが踏んでいった河原の小石も、あなたを思うわたしには、この世の貴重なたからものです。拾い上げて大切にします)
山吹の立ちよそおひたる山清水 汲みに行かめど道の知らなく (巻2−158)
(黄色い山吹の花が彩る山の清水を汲みに行こう、黄泉の国にあなたを訪ねて行こうと思うが、道が分からない)
時代が下がるにつれて、和歌から「たましい」の要素は薄れた。古今集、新古今集の歌になると、たましいの宗教性はほとんど感じられない。そのかわり微妙で優雅な「こころ」の世界が多く描かれるようになった。(源実朝などの一部の例外はある)
江戸時代になって、日本の文芸はもういちど「たましい」の次元にまで深められた。その立て役者は、松尾芭蕉だろう。そして万葉集と芭蕉に私淑した良寛によって、ふたたび日本の和歌は魂の世界に復活したというのが、私のおおよその近世文学史観である。
夏目漱石の「こころ」はその題名のとおり、人間の「こころ」を仔細に点検し、その根底にあるものをさぐろうとしている。彼は近代人の複雑怪奇なこころの世界に興味を持ち、これを犀利な知性を駆使して描いてみせた。
これに対して、「銀河鉄道の夜」など、宮沢賢治の童話は玲瓏とした「たましいの世界」を描いている。人間にかぎらず、あらゆる動物や植物、あるいは電信柱のような物質までいのちを帯び、たましいをもつ独特の霊的世界である。また、詩歌では金子みすずの童謡が「たましい」の世界を美しく描いている。さいごに彼女の詩を引用しておこう。
花のたましい
散ったお花のたましいは、 み仏さまの花ぞのに、 ひとつ残らず生まれるの。
だって、お花はやさしくて、 おてんとさまが呼ぶときに、 ぱっとひらいて、ほほえんで、 蝶々にあまい蜜をやり、 人にゃ匂いをみなくれて、
風がおいでとよぶときに、 やはりすなおについてゆき、
なきがらさえも、ままごとの 御飯になってくれるから。
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