橋本裕の日記
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カイザリアというのは、その名前の通り、カエサルの都市という意味だ。パウロの一行はここから船でローマへと旅だった。小アジア沿岸の各地に停泊しながら進んだが、途中暴風に襲われたりして、船旅は苦難の連続だった。
最大のピンチは、クレタ島の近くで強い逆風を受けて船が漂流し始めたときだ。幾日ものあいだ太陽は見えず、暴風がふきすさむなかで、船は沈没寸前になった。人々は積み荷を捨て、船具を捨て、15日目には食料も捨ててしまった。そして船はようやくマルタ島に近づいたが、入江を前にして座礁してしまった。
<兵卒たちは、囚人らが泳いで逃げるおそれがあるので、殺してしまおうと図ったが、百卒長は、パウロを救いたいと思うところから、その意図をそりぞけ、泳げる者はまず海に飛び込んで陸に行き、その他の者は、板や船の破片に乗っていくように命じた。こうして、全部の者が上陸して救われたのであった>(使徒行伝)
パウロらはマルタ島で3ヶ月を過ごした。そして春の訪れとともに、ローマへと旅だった。イオニア海を北上し、シチリア島のシラクサにより、イタリア半島のポテオリに上陸した。あとは陸路7日間の旅だった。
パウロがローマ兵に引率されてローマに着いたのはAC62年の初夏のころだ。ローマ在住の異邦人キリスト教徒が途中で出迎えてくれた。パウロはローマで番兵をつけられた上で、ひとりで住むことを許された。ローマにおけるパウロの活動を、「使徒行伝」はくわしく書かずにこう結んでいる。
<パウロは、自分の借りた家に満2年のあいだ住んで、たずねて来る人々をみな迎入れ、はばからず、また妨げられることもなく、神の国を宣べ伝え、主イエス・キリストのことを教え続けた>
パウロがローマの法廷でどういう判決を受けたのか、彼の最後がどうだったのか、だれにもわからない。多くの研究者は、彼はAC64年7月18日のローマの火災で焼け出され、その後に行われたローマ皇帝ネロのキリスト教迫害にあって処刑されたのではないかと推定している。そのころのローマを史書はこう伝えている。
<放埒、淫欲、驕侈、貪婪、残酷を、なるほど初めのうちこそ、ネロはさりげなく、そして人目を忍び、いかにも若者にありがちな誤りでもあるかのように、犯していたが、そのころでも人々は、これらの悪徳が、生来のもので年齢とは関係がないと信じて疑わなかった。
ネロは、どんな理由からにせよ、これと決めた人を殺すのに、差別や手加減などを加えることは一切なかった。自殺を命じた者には、1時間を越える余裕もなかった>(スエトニウス「ローマ皇帝伝」)
タキトゥスもまた「年代記」の中で、ネロについて、「自然・不自然を問わず、あらゆる淫行でもって身を汚し、もうこれ以上堕落のしようがあるまいと思えるほど背徳の限りを尽くした」と書いている。母親アグリッピナさえも犯そうとし、さらには殺害までしている。そうした背徳の都で死んだパウロについて、森本哲朗さんはこう書いている。
<パウロがローマで殉教したことは、深い意味を持っている。なぜなら、当時の世界都市ローマは、悪の見本市でもあったからである。そこはまさしく、第二のバビロンであった。(略)
ネロの死後、内乱を経てようやく安定をとりもどす5賢帝時代になっても、人々はただ欲望の命じるままに動いていた。ローマ帝国の版図はトラヤヌス帝のとき最大となり、属州のいたるところに都市が出現した。
それらの都市を性格づけていたのは、ローマふうの劇場、円形の競技場、公衆浴場、すなわち享楽のための施設であり、どの都市にあっても人びとは「パンとサーカス」に生きていたのである。(略)
パウロの終着地点がローマであったことは、この意味できわめて重要といわねばならない。彼はそのような「罪の都」でイエスの教えをつたえ、殉教し、それによってキリスト今日の礎石をそこに据えたからである>(神の旅人)
ローマの大火と、その後に行われた処刑は、しかしキリスト教徒たちをさらに信仰へと燃え上がらせた。パウロの燃えるような信仰心が、その頃頽廃の極にあったローマに、あらたな精神の灯をともしていたからだろう。
<アウグストゥス治下のローマでは、1年のうち66ほどが、公共のゲームにささげられた。マルクス・アウレリウス治下では、彼はゲームを退屈だと思ったにもかかわらず、この数字が135日にのぼる。そして4世紀には、少なくとも175日に達した。
皇帝の大部分が、血に飢えた臣下にまけずおとらず、エクサイティングな剣闘士の傷害ラウンドを楽しんだのもまた明らかとはいえ、競技場にきまって列席するこが、人気をたもつために、皇帝には必要だったのだ>(プラトンリンガー「パンとサーカス」)
<アリュビウスは眼を閉じ、心に命じて、そのような悪いものに向かわないようにした。だが、耳をふさぐべきだったのだろう。実際、一人の闘士がたおれたとき、全観衆が割れるような叫び声をあげたのである。そのとき、彼は好奇心に負けて、眼を開いてしまった。
彼は血を見て、すぐに、むごたらしさをも赤い葡萄酒のように飲みほし、顔をそむけもしないで、まともに、それに見入った。血なまぐさい激しさを、あえぐように吸い込んで、しかもそれに気がつかなかった>(アウグスティヌス「告白」)
AC391年1月1日、一人のキリスト修道士が立ちあがった。彼は血みどろの競技を続けている剣闘士のあいだに割って入り、「殺しあいはやめよ」と叫んだ。熱狂していた観衆は、おもわぬ闖入者に一瞬静まりかえったが、次の瞬間怒りだした。観衆たちの投石がはじまり、修道士はその場で絶命した。しかし、これがきっかけになって、心ある人たちが立ち上がり、ついにホノリウス帝は剣闘士の見せ物を禁止することにした。
森本哲朗さんは、「自分の生命を賭して、殺人競技を告発したこの僧こそ、聖テーレマコスだった。パウロが殉教したローマとは、このような世界だったのであり、パウロのまいた種はこうしてローマを変えていったのである」と書いている。
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