橋本裕の日記
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2006年01月14日(土) 神の家族

 パウロはカイザリアで2年間を過ごした。その間、彼はローマ総督のもとで軟禁されていたらしい。ローマ総督のペリクスはパウロを呼びだして話をきいた。総督の関心は、いかにユダヤの反ローマ勢力の勢力をそぐかということだった。この点でパウロの知っている情報に興味があったのだろう。

 しかし、パウロはそうした話題にはふれず、ただひたすらイエスへの信仰を説いた。パウロが正義や節制、未来の審判のことを話していると、ペリレスは不安を感じて、「今日はもう帰るがよい。また呼び出す」とパウロを退出させたという。

 パウロは幽閉されていても、神の使徒としての活動はやめなかった。パウロには「獄中書簡」とよばれるものがいくつか残っている。森本哲朗さんは、なかでも有名な「エペソ人への手紙」は、このカイザリア幽閉中に書かれたものではないか推測している。

<キリストはわたしたちの平和であって、二つのものを一つにし、敵意という隔ての中垣を取り除き、ご自分の肉によって、数々の規定から成っている戒めの律法を廃棄したのである。

 あなたがたは、もはや異国人でも宿り人でもなく、聖徒たちと同じ国籍の者であり、神の家族なのである。

 立って真理の帯を腰にしめ、正義の胸当を胸につけ、平和の福音の備えを足にはき、その上に、信仰のたてを手にとりなさい。それをもって、悪しき者の放つ火の矢を消すことができるであろう>(エペソ人への手紙)

 やがてペリレスは皇帝ネロによって解任され、新しい総督フェストがやってきた。この新総督のもとで、ふたたび裁判が開かれた。エルサレムからきたユダヤ人は口々にパウロの罪状を並べ立てたが、新総督もまたこれによってローマ市民であるパウロを有罪にしてよいかどうか決断できなかった。パウロは総督にこう直訴した。

「わたしはユダヤ人たちに、何も悪いことはしていません。もしわたしが悪いことをし、死に当たるようなことをしているのなら、死を免れようとはしません。しかし、もし彼らの訴えることに、何の根拠もないとすれば、だれもわたしを彼らに引き渡す権利はありません。わたしはカイザルに上訴します」(使徒行伝)

 この上訴を受けて、総督フェストはパウロを他の数人の囚人と一緒にローマに送ることにした。こうしてパウロは二年間の拘禁を解かれ、ローマの兵達に引率されてローマへと旅立つことになった。それはベスビオス火山が火を噴いてポンペイが埋もれる18年前の、AC61年のことだという。 


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