橋本裕の日記
DiaryINDEX|past|will
パウロの心中はわからないが、ともかく彼はエルサレム母教会の長老たちにいわれた通りに行動した。つまり、4人の人たちを連れて、彼らとともにきよめを受けてから宮に入った。とりあえず自分が律法を軽視していないことを人々に示そうとしたわけだ。
しかし、7日間続けられたきよめが終わろうとするころ、アジアから来たユダヤ人たちが宮でパウロを見かけて騒ぎ出した。彼らはパウロに手をかけて叫んだ。
「イスラエルの人々よ、加勢してくれ。この人は、いたるところで民と律法とこの場所にそむくことを、みんなに教えている。その上に、ギリシャ人を宮の内に連れ込んで、この神聖な場所を汚したのだ」(使徒行伝)
パウロとともに宮にいた4人はユダヤ人だったが、興奮した民衆はもうそんなことはどうでもよかった。騒ぎを知ってかけつけたエルサレムの守備隊長がパウロを保護した。「その男を殺してしまえ」という群衆の叫びの中を、パウロは兵士達に担がれて退出した。
パウロはローマ市民権をもっていた。そして国際語であったギリシャ語を流暢に話した。したがってローマの官憲も彼をないがしろにするわけにはいかなかった。エルサレムの守備隊長は次のような手紙を添えて、彼をエルサレムからカイザリアのユダヤ総督のもとに送った。
<パウロが、ユダヤ人らに捕らえられ、まさに殺されようとしていたのを、彼がローマ市民であることを知ったので、わたしが兵卒たちを率いて行って、彼を救い出しました。それから、彼が訴えられた理由を知ろうと思い、彼を議会に連れて行きました。ところが、彼はユダヤ人の律法の問題で訴えられたものであり、なんら死刑または投獄に当たる罪のないことがわかりました。
しかし、この人に対して陰謀がめぐらされているとの報告がありましたので、わたしは取りあえず、彼を閣下のもとにお送りすることにし、訴える者たちには、閣下の前で、彼に対する申し立てをするようにと、命じておきました>(使徒行伝)
当時、ユダヤはシリアに合併され、ローマ総督の監督のもとにおかれていたが、ユダヤのローマに対する反感と憎悪は強く、ローマも手を焼いていた。事実、これから8年後のAD66年に、エルサレムでローマに対する大規模な反乱が起こっている。
そうした一触即発の不穏な雰囲気が、すでに当時のエルサレムには充満していた。さて、エルサレムに送られたパウロの運命はどうなるのか。続きは明日の日記に書くことにしよう。
|