橋本裕の日記
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パウロの布教の旅は、2万キロにも及んでいる。彼は3度目の伝道の旅で、エペソからマケドニアに向かい、ピリピ、テサロニケ、ペレアの諸教会を訪ね、コリントで冬を過ごしたあと、いよいよエルサレムへと向かった。パウロ63歳の頃である。
AC58年5月に、パウロはヘロデ王が建設した白亜の港町でユダヤの首都でもあったカイザリアに入った。そこから聖都エルサレムまで陸路を100キロほどである。カイザリアに入る前、パウロはミレトスで各地の教会の長老たちにあい、こんな言葉を残している。
<今や、わたしは御魂に迫られてエルサレムに行く。あの都で、どんな事がわたしの身にふりかかって来るか、わたしにはわからない。わたしはいま信じている。あなたがたの間を歩き回って御国を宣べ伝えたこのわたし顔を、みんなが今後二度と見ることはあるまい。
私が去った後、凶暴なおおかみが、あなたがたの中にはいり込んできて、容赦なく群を荒らすようになることを、わたしは知っている。だから、目をさましていなさい。そして、わたしが3年の間、夜も昼も涙をもって、あなたがたひとりびとりを絶えずさとしてきたことを、忘れないでほしい>(使徒行伝)
人々は慟哭し、パウロを船にまで見送ったという。人々はパウロの演説から、もはや再びあうことができないことを予感していた。そして人々がいくら泣いて取りすがっても、パウロの決意が固いことも知っていた。
エルサレムはヘブライ語でイェルシャライムといい、その意味は「シャローム(平和)の町」という意味である。しかし、現在にいたるまで、エルサレムほど平和から遠い町はない。パウロが目差したエルサレムも動揺のさなかにあった。なにしろ、キリストがそこで十字架にかけられて、まだ28年しかたっていなかった。
エルサレムの教会にはヤコブをはじめ、11使徒と呼ばれるイエスの直弟子たちがいた。彼ら長老たちはイエスの直弟子でもないパウロをどう見ていたか、パウロは知らないではない。パウロはかってアンティオキアでペテロと論争したことがある。
<ペテロがアンテオケにきたとき、彼に非難すべきことがあったので、わたしは面とむかって彼をなじった。「あなたは、ユダヤ人であるのに、自分自身は異邦人のように生活しながら、どうして異邦人にユダヤ人のようになることを強いるのか」>(ガラテア人への手紙)
パウロはユダヤの律法にとらわれず、キリストへの信仰に生きることが大切だと考えていた。キリストの教えはユダヤ人だけのものではない。異邦人にまで割礼を強い、律法を強いるいわれはどこにもなかった。パウロはキリストの弟子であった長老たちが、この点を理解しないのが歯がゆかった。
長老達の目からすると、ユダヤ人でありながら、そしてだれよりも厳格な律法主義者(パイサイ人)であり、かってはキリスト教を弾圧する立場にいた彼が、掌を返したようにイエスを崇拝し、しかもそれを異邦人にまで熱心に広めようとしていることに違和感があったのだろう。しかもその言葉や態度は妥協を許さない激烈さを帯びていた。
エルサレムの母教会を訪れたパウロはアジア、マケドニアの教会からあつめた献金をさしだし、自分の布教活動の報告をした。しかし、パウロを迎えるユダヤ人キリスト信者の態度は冷ややかだったようだ。パウロに同行したルカは、「使徒行伝」のなかで、長老たちのパウロに対する言葉を書き残している。
<伝え聞いているところによれば、あなたは異邦人の中にいるユダヤ人一同に対して、子どもに割礼を施すな、またユダヤの習慣にしたがうなと言って、モーゼにそむくことを教えている、ということである。どうしたらよいか。あなたがここにきているということは、彼らもきっと聞き込むに違いない。ついては、今わたしたちが言うとおりにしなさい。
わたしたちの中に、誓願を立てている者が4人いる。この人たちを連れて行って、彼らと共にきよめを行い、また彼らの頭をそる費用を引き受けてやりなさい。そうすれば、あなたについて、うわさされていることは、根も葉もないことで、あなたは律法を守って、正しい生活をしていることが、みんなにわかるであろう>(使徒行伝)
長老達たちが要求したのは、パウロが律法に忠実であることを、公衆の面前で示せということだった。しかし、それはパウロにとって、これまでの信仰に対する立場を放棄せよと迫るに等しいことだった。パウロはこの心中の難問をどう解決したのだろう。
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