橋本裕の日記
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| 2006年01月11日(水) |
アレオパゴスのパウロ |
正月に遊びに行った次女に、義父が「アテネに連れていってくれ」と言った。次女は今年は大学の卒論があるし、それに進路のこともある。それを横で聞いていた妻が、「もっとヒマそうな人にあたってみたら」と私の名前を上げたそうである。
「俺ならいいぞ。義父さんをアテネに案内して、念願のパルテノン神殿を見物させてやろう」 「父は80歳よ。もう外国の長旅はむりだわ」 「そうかな。しかし、ビジネスクラスあたりで、ゆっくり行けば何とかなるんじゃないか」
アテネに行きたいのは私の方かもしれない。おりしも森本哲朗さんの「神の旅人」を読んでいる最中だった。パルテノン神殿もそうだが、私にはもう一つどうしても行ってみたいところがある。それはアーレスの丘(アレオパゴス)である。
パルテノン神殿のあるアクロポリスの丘に登り、すぐ下を見下ろすと、オリーブの坂をへだてて、裸の岩山がみえる。頂の平らな、高さが100メートルほどのその巨大な岩の塊がアーレスの丘だという。
軍神アーレスはオリンポスの12神のひとりだが、大変粗暴な性格で、他の神々も持て余していた。しかし、アーレスがポセイドンの息子を殺したとき、さすが神々も彼を許さなかった。このときアーレスを裁く法廷が開かれたのがこの丘だという。
こうした神話にゆかりの丘を、アテネの人々は法廷として使った。裁判ばかりではなく、さまざまな集会がここで開かれた。その丘にはペリクレスやアレキサンダー大王が立って演説しただろうし、ソクラテスもプラトンもアリストテレスも立ったにちがいない。パウロもこの丘でアテネの人々を前に、「神の教え」を説いている。
<アテネの人たちよ、あなたがたは、あらゆる点において、すこぶる宗教心に富んでおられると、わたしは見ている。そこで、あなたがたが知らずに拝んでいるものを、いま知らせてあげよう。この世界と、その中にある万物とを造った神は、天地の主であるのだから、手で造った宮などにはお住みにならない。また、何か不足でもしておるかのように、人の手によって仕えられる必要もない。神たる者を、人間の技巧や空想で金や銀や石などに彫り付けたものと同じと見なすべきではない。神はこのような無知の時代を、これまでは見過ごしにされていたが、今はどこにおる人でも、みな悔い改めなければならないことを命じておられる>(使徒行伝)
ローマが政治の中心だとすると、アテネは文化の中心だった。いわば最高の知性を前に、パウロはギリシャ語で熱弁をふるったわけだ。パウロはこうした教養ある人々を相手に、「巧みな知恵の言葉」を使い、信仰の言葉ではなく、むしろ理性に訴える話し方をした。しかし、結果はかんばしいものではなかった。とくに、イエスの復活をほのめかしたとき、アテネ人たちのなかに嘲笑がおきた。
<死人のよみがえりのことを聞くと、ある者たちはあざ笑い、またある者たちは「この事については、いずれまた聞くことにする」と言った。こうして、パウロは彼らの中から出て行った>(使徒行伝)
当時、ローマ世界で人気があったのは、エピクロス派やストア派の哲学だった。ヘレニズム時代を代表するこれらの哲学は、いま私たちが読み返しても益するところが大きい。しかしこの哲学を道しるべとし、ロゴス(理性)に基づいた節度ある生活をしていた人たちは、文化の都とよばれたアテネでもそう多くはなかった。
多くの人々は、宮殿にさまざまな神の像をまつり、これを偶像崇拝していた。そうした無知な人々に対しても、また知的な人々に対しても、パウロの演説はその胸底までは届かなかった。パウロは失望してアテネを去り、コリントに向かった。
<わたしがあなたがたの所へ行った時には、弱くかつ恐れ、ひどく不安であった。そして、わたしの言葉もわたしの宣教も、巧みな知恵の言葉によらないで、霊と力の証明によったのである。それは、あなたがたの信仰が人の知恵によらないで、神の力によるものとなるためであった>(コリント人への手紙)
パウロは「巧みな知恵の言葉」に頼ることで、アテネで失敗した。そこで、「知恵の言葉」に頼りすぎないで、「信仰の言葉」に力点を移すことにしたのだ。こうしてパウロはアテネでの失敗をいささか挽回した。そこにはパウロの言葉に虚心に耳を傾ける人たちがいて、種が芽を出すことができる「良き土」があった。
いずれにせよ、パウロはアテネで挫折した。その苦い記念の場所がアーレスの丘である。アテネを訪れた時には、私もまたこの丘に登り、眼下のアテネの市街や、古代のアゴラでも眺めて、できればひなが一日、そこで瞑想に耽っていたい。アクロポリスの丘に比べて、こちらはほとんど訪れる観光客はいないようだ。
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