橋本裕の日記
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2006年01月09日(月) もし一粒の麦死なずば

 キリストが十字架にかけられたのはAC30年の年だ。このとき、パウロは35歳くらいだった。1,2年後、パウロは復活したイエスの声を聞いて、ユダヤ教からキリスト教に改宗する。そして伝道活動の旅に出る。

 パウロは都合3度の伝道旅行をしているが、そのうち2回目と3回目でコリントを訪れ、ここに数年間滞在した。パウロが最初にコリントを訪れたのはAC50年だが、この頃コリントは当時アテネと並ぶ国際商業都市として賑わっていた。「パウロは安息日ごとに会堂で論じては、ユダヤ人やギリシャ人の説得に努めた」(使徒列伝)とあるように、パウロにとってここは重要な伝道拠点だった。

 ところがパウロはコリントに住む一人のユダヤ人から「ユダヤの律法にそむいて神を拝むように人々をそそのかしている」と訴えられる。なにやらキリストの受難を思わせる成り行きである。しかし、ピラトと違って、コリントの総督であったガリオはこれを無視した。訴えた男は反対にパウロを支持する人々によって打ち据えられた。

 コリント総督のガリオはセネカの兄だという。セネカはガリオにあてて、何通かの手紙を送っている。それらの一部を引用しよう。

<ガリオの兄上に申す。幸せに生活したいのは誰もみな望むところである。しかし人生を幸せにするのが果たして何であるかを見定めるのはむつかしく、誰もみんな五里霧中の状態だ。それだけに、幸福な人生に到達するのは容易でないどころか、誰でも一歩道を誤れば、幸福な人生を求めて急げば急ぐほど、逆にそこから遠ざかってしまうばかりである>(幸福な人生について)

<大広場が沢山の人間で雑踏している。大競技場には、民衆の大部分が姿を現す。そういうところを見るときには、そこには人間の数と同じぐらいの悪徳があると承知するがよい。平服時のトガを着た者たちを見ても、彼らの間には何の平和もない。ある者は僅かな銭をもらって、他の者を破滅させることに引き込まれる。他の者が損害を受けないことには、誰にも儲けはない。彼らは幸福な人を憎み、不幸な人を軽んずる。矛盾した欲望に掻き乱されて、僅かな快楽や利益のためにすべてを失うことさえも望む。これは野獣の集まりである>(怒りについて)

 セネカが描いたのは、ローマの頽廃した姿だが、コリントなどバックス・ロマーナ(ローマの力による平和)によって繁栄を極めた地方都市でも状況は同じだった。森本哲朗さんは「神の旅人」(PHP文庫)のなかで、次のように書いている。

<セネカの作品ほど当時のローマの風潮を、当時の人びとの魂の状況を、はっきりとつたえるものはない。ローマの都市はどこでもにぎわい、市民たちは享楽の毎日を送っていた。だが、享楽を追えば追うほど、利に走れば走るだけ、刺激を求めれば求めるにつれ、人々の心の内は空虚になっていった。そして、人間を真にしあわせにするものは何なのか、だれもそれを見定めることができず、みな五里霧中の有様だった>

 ちなみに、セネカから手紙を送られた総督のガリオは、AC66年に自殺している。カリグラ、クラウディウス、ネロと続く皇帝の陰謀と流血に満ちた時代を生きることは容易ではない。とくに悪徳に流されず、自己に誠実に生きようとすれば、誰しも絶望に打ちひしがれるものだ。こうした中で、パウロの言葉が人々の胸にしみこんでいった。

<ある人は言うだろう。「どんなふうにして、死人がよみがえるのか。どんなからだをして来るのか」。おろかな人である。あなたの蒔くものは、死ななければ、生かされないではないか>(コリント人への第一の手紙)

 パウロはコリントの町に「1年6ケ月の間腰をすえて、神の言葉を彼らの間に教え続けた」(使徒列伝)という。彼はユダヤの律法主義を批判すると同時に、ギリシャ人の偶像崇拝を厳しく糾弾し、彼らの神々を児戯に等しいものとして排斥した。弟子の家に住み込んで、生業のための天幕造りの仕事をしながら、命をかけての烈しい伝道だった。


橋本裕 |MAILHomePage

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