橋本裕の日記
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2006年01月06日(金) 神の旅人

 昨日は妻から夫が離婚を迫られるケースを書いた。そこで今日は夫から妻に離縁状を迫る場合を書いてみよう。統計を調べてみたわけではないが、こちらのケースはかなり稀だろう。しかし、私の知人にもいるくらいだから、皆無ではない。

 離縁状を出したからといって、夫が妻を嫌っているわけではない。夫はむしろ妻を愛し、家族を愛しているかもしれない。しかし、家族以上にやりたいこと、やらねばならないことがある場合もある。

 定年までは、この気持を押さえて、家族のために尽くしてきた。家族サービスもし、よき夫であり、よき父親であった。そうした男がいきなり、「俺と縁を切ってくれ」と言い出したら、妻はおどろき、子供たちもびっくりするだろう。

「そんなの、身勝手ではありませんか」
「お父さんのエゴイズムよ」
「あなたがそんな人間だとは知りませんでした」

 おそらく集中砲火をあびて、立ち往生するかもしれない。したがって、男はそうした愁嘆場をさけ、手紙をおいてある日忽然と姿を消すだろう。「これまでありがとう。感謝している。しかし、俺にはやりたいことがある。できれば離婚してくれ」と書かれた手紙に、離婚届も添えておく。

 これでも残された家族にはショックなことには変わりはない。妻は夫に女ができたのかと疑うかも知れない。そこで、何か自分の気持を伝えることができる証拠を添えておくほうがよい。たとえば、芭蕉の「奥の細道」とか、森本哲朗の「神の旅人」(PHP文庫)などはどうだろうか。パウロの生涯を書いた「神の旅人」という本の冒頭近くには、こんな文章がある。

<人間はだれもが、げんに生きている自分を自覚している。こうしてわたしは生きている、とそう思っている。だが、ある瞬間、自分は生きているのではなく、生かされているのではないか、ということに気付く。そして、そのときから、その人は人生の旅人となる>

 妻も子供もこれをいぶかしがるだろう。しかし、何かこの世の常でないものの気配をくみとることができるはずだ。芭蕉はその気持を、「そぞろ神の物につきて心をくるはせ」と書いた。いってみれば「酔狂」ということかもしれない。

 夫が離縁を迫るのは、家族との関係を清算したいから、絆を断ちたいからである。そうしないと、また未練がましく舞い戻ってくるかもしれない。また、旅に出た以上は、「のざらし」は覚悟の上だろう。どんな死に方をするかわからないが、家族に迷惑はかけられない。

 ここに書いたのは、とてもまれなケースのように思われるかもしれない。しかし、私は「片雲の風にさそわれて、漂泊の思ひやまず」という衝動は、多くの人たちの胸底ふかくに潜んでいるのではないかと考えている。なぜなら、私たちはだれしも、ほんとうのところは「神の旅人」だからだ。

 森本さんは、「人はさまざまな動機で旅に出る。さまざまな目的で旅を試みる。だが、人々を旅に誘うもの、それは神の呼び声なのではないか」と書いている。私も同感である。そして、「そぞろ神」に誘われて旅に出る代償に、今日もこんな日記を書いている。


橋本裕 |MAILHomePage

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