橋本裕の日記
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2005年12月27日(火) 1985年の日記

 冬には毎年青春切符の旅をしているが、今年は見送ることにした。懐が寒いことが一番の理由だが、この雪でいささか旅をするのが億劫になったことも確かだ。かわりに、年末に金沢まで車でお節料理の買い出しに行こうかなどと思っている。しかし、これも北陸の天候次第だ。

 青春切符の旅はできなくなったが、この機会に過去の日記のデジタル化にとりくみたい。そしてこの20年間の日記帳をなるべく早く処分したい。すでに3年分は完了しているので、1985年分にとりかかった。日記を読み返すのも魅力的な「インナートリップ」だ。4日間で1年分を完了し、さっそく「過去の日記」にリンクした。

 1985年という年は思い出の深い年である。それはこの年の2月2日に次女が誕生したからだ。次女が小学生の時、「生まれたときの様子をお父さんやお母さんからくわしく書いてもらうように」という宿題を持って帰ってきた。私は自分の日記を引用した。次女誕生前後の日記は、それからときどき読み返した。

 日記を読んでいると、忘れていた記憶が次々と読みがえってくる。2歳の長女と赤ん坊の次女を、毎日お昼に湯浴びさせていたこと。それから家族で行った近所の公園。公園にはおおきな池があり、蓮の花が咲き、鯉やカメがいた。そしてその公園を管理していた老夫婦のことなど。

 夜間定時制に勤務していた私は、お昼たっぷりと子供たちと触れ合う時間があった。しかし、一方で同人誌に小説を書くために自分一人の静寂を欲してもいた。ときには子供たちのことを鬱陶しいと思い、妻に当たり散らした。日記にはその苦々しい心境も書かれている。

 時代背景を見てみると、2月7日に創政会が結成され、田中派は分裂した。3月16日に筑波で科学万博が開催。8月12日には、日航ジャンボ機が墜落して520人が死んだ。その3日後の8月15日、中曽根首相が戦後の首相としてはじめて靖国神社に参拝している。「新人類」という言葉が流行ったのもこの頃だ。

 さて、「1985年の日記」の副題を「いのちを味わう」とした。夜間高校定時制も3年目を迎え、生徒との多少の軋轢はあったが、三河の新設高校であくせくしていた頃とは大違いで、精神的にもゆとりが生まれ、日記にも生活の記録や俳句が多くなった。小説もいくつか「作家」に発表している。まずは仕事の面でも、家庭的にも恵まれた年だった。 

 1985年の日記も、すべてをここに収録することはしなかった。一冊の日記帳のなかで、ここに写したのは2割ほどでしかない。日記を処分することで、大方の記録が失われることになるが、これは止むをえないことだ。日記が残され、その一部をここに保存できたことを喜びとしよう。

「1985年の日記」
http://home.owari.ne.jp/~fukuzawa/mukasi85.htm


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