橋本裕の日記
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私の毎朝散歩している木曽川南岸の土手が工事中なので、最近は木曽川橋を渡った北岸を散歩することが多くなった。橋を渡るとそこは岐阜県の笠松町である。ときには笠松町の町中にまで足をのばす。
笠松は江戸時代は陣屋が置かれ、明治になってからは県庁が置かれるなど、美濃地方の政治の中心地だった。ここからは伊勢、京都に通じ、渡し場を通って名古屋にも通じていた。川湊としても栄え、この地方の経済の中心地だった。
笠松港は伊勢湾沿いの桑名・四日市・津・松坂・名古屋・常滑方面と、上りは木曽川沿いの犬山・土田・太田・兼山・八百津方面へ通じていた。塩・雑穀・肥料・瓶・土管・石灰などがここにもたらされ、笠松港からは建築用丸石・砂利・薪・味噌・たまりが積み出されていたという。
今そのにぎわいはない。跡地は小公園となり、往時をわずかにしのばせるものとして灯台・道標・芭蕉句碑が立っている。道標は天保4年(1833)のものを、近年に復元したもので、「右いせ、左なごや、すぐ京みち」と刻まれている。
松尾芭蕉は貞享元年(1684)から翌年にかけての「野ざらし紀行」の旅でこの地を訪れ、笠松で一泊している、そのときの芭蕉が詠んだ二つの句が句碑に刻まれている。
時雨ふれ笠松へ着日なりけり
春かぜやきせるくはへて船頭殿
小公園から木曽川が見渡せるが、その昔、芭蕉は船でこの川を下りながら「春かぜやきせるくはへて船頭殿」と詠んだわけだ。小公園から、木曽川へ下る坂道には往時を物語る石畳が残っている。私はこの石畳を踏んで、河原に下りたり、高台にある小公園に登ったりする。この石畳を芭蕉も歩いたかも知れないと、楽しい空想に耽る。
公園の後ろには堤防道路を挟んで、笠松の街並みが拡がっている。黒塀の家や廃業した喫茶店、伝統的な町屋も少しだが残っている、そして町にあちこちに寺院や社がある。私はこうした鄙びた古い街並みを歩くのが好きだ。笠松のあちらこちらに、芭蕉の句碑がある。それをめぐりながら、またいろいろと考える。このひとときが楽しい。
道のべの木槿は馬にかまれけり (蓮国寺)
永き日を囀りたらぬ雲雀かな (称名寺)
はらなかやものもつかず啼くひばり (日枝神社)
草いろいろおのおの花の手柄かな (中央公民館)
現在の笠松の様子を知って貰うために、私が参考にしている「町並み紀行:岐阜県美濃・飛騨路」と題されたHPから、笠松のところを一部引用しよう。
<町並みは、港跡から八幡神社に向かって北に延びる通りを中心に発達をする。川の近くの港跡界隈は港町、そこから北に下本町、上本町、八幡町と続き、港町の西に西町、本町の東に司町などがある。
港町は、川べりのごく狭い一角ではあるが、青果市場があり、塗込造りの高木家が古い構えをみせている。本町通りは、港町寄りの下本町に古い町並みが見られ、蔵造りの山田釣具店、塗込造りの小森家、伝統的な町家である金桝屋酒店、吉田時計舗などが昔の姿をとどめている。また、八幡町には、塗込造りでウダツを上げた高木喜右衛門家が風格のある構えをみせる。西町と司町は、仕舞屋の多い通りとなっているが、司町の川に出る路地が、昔の名残をとどめている。
笠松には、寺院もけっこう集まっており、本町には法伝寺(真宗大谷派)、蓮国寺(日蓮宗)、司町には福證寺(真宗大谷派)、西町には盛泉寺(真宗大谷派)、誓願寺(小庵)、西町南の柳原町には西本願寺別院などがあり、浄土真宗の勢力が強い。
町並みの北には八幡神社が鎮座する。境内には富森稲荷がまつられている。別名「陣屋稲荷」ともいう。由来は、享保5年(1720)に郡代辻甚太郎が京都伏見稲荷の分霊を勧請して、陣屋内の鎮守としたものという。明治維新後に、八幡神社境内に移された。
八幡町の東は県町という。この一角に、笠松陣屋跡地の記念碑が立てられている。ここは、陣屋が設けられた地にあたる。陣屋が笠松に置かれたのは、寛文2年(1662)のことで、美濃郡代名取半左衛門は、当時「笠町」と呼ばれていた地を笠松に改めた。以来、笠松陣屋は、美濃国内の幕府領の支配と治水などを行ない、幕末まで続いた。そして、笠松裁判所を経て笠松県の県庁舎として利用され、明治4年の岐阜県の誕生によって笠松県庁は廃止された。
笠松は、陣屋が置かれて政治の中心となるとともに、川湊のある商人町としての繁栄の跡を、今もわずかではあるが伝えている>
http://www2.aasa.ac.jp/people/onomi/3418.html
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