橋本裕の日記
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2005年11月26日(土) 長良川の少女

 川端康成は私の好きな作家の一人である。先日、妻と二人で長良川の河畔を車で走りながら、短編小説「篝火」を思い出した。家に帰り、川端康成全集第二巻を広げて、作品を拾い読みした。小説はこんな書き出しで始まっている。

<岐阜名産の雨傘と提燈を作る家の多い田舎町の澄願寺には、門がなかった。道に立ち停まって、境内のまばらな立樹越しに奥を窺っていた朝倉が言った。
「みち子がいる、いる、ね、立っているだろう」
 私は朝倉に身を寄せて伸び上がった>

 川端は大正6年に18歳で大阪から上京し、9月には一高に入学している。伊豆へ旅したのは19歳のことだ。そして20歳の川端青年は本郷元町のカフェで女給をしていた可憐な少女(伊藤初代)と出合う。川端は彼女のいるカフェに友人たちと通い詰めた。

 ところが彼女は岐阜の加納の西方寺(小説では澄願寺)に養女として貰われることになり、東京を去る。大正10年10月8日、21歳の川端は友人と一緒に、初代に結婚の申し込みをしようと岐阜を訪れる。このとき初代はまだ数え年16歳だった。「篝火」にはその顛末が描かれている。

 川端と友人の朝倉(実名:三明永無)と示し合わせて、みち子(初代)を長良川河畔の宿に誘いだす。笠屋の並んだ町屋の一角を抜け、天満宮の境内を通って広い道にでる。友人が気を利かせて先に立ってあるいていく。

<私はみち子と歩いていた。女の美しさは日の下の道を歩くときにだけ正直な裸になると思って、私は歩いているみち子を見た。体臭の微塵もない娘だと感じた。病気のように蒼い。快活が底に沈んで、自分の奥の孤独をしじゅう見つめているようだ。女と歩き馴れない私には背丈の違う相手が具合悪い。敷き詰めた砂礫を踏むみち子の足駄は運びにくそうであった>

 三人は長良橋を渡り、川向こうの宿屋に行く。通された二階の八畳から川面が見えた。金華山の緑がけぶり、その上に天守閣が見える。心が爽やかに広がる眺望だった。川端はみち子を残して朝倉と風呂に入る。そしてすぐに風呂を出て、部屋に引き返してくる。二人の会話を小説から拾ってみよう。

「朝倉さんから聞いてくれたのか」
「ええ」
「それでは君はどう思ってくれる」
「わたくしはなんにも申し上げられません」
「え?」
「わたくしには、申し上げることなぞございません。貰っていただければ、わたくしは幸福でございますわ」
「幸福かどうかは……」
「いいえ、幸福ですわ」

 21歳の若者と16歳の少女の会話にしてはませている。とくに川端の言葉は冷静に見えるが、その実、「煙管を銜えようとすると、琥珀のパイプはかちかち歯に鳴る」ほど緊張していた。

<私は感情が少しも言葉に出来ない。空想していたのとはまるでちがう。みち子のほうが遙かにしゃんと立っている。そして、黙ってしまうと、私の安らいだ心は、静かに澄んだ水になって、ひたひたと遠くに拡がってゆく。眠ってしまいたいようだ。この娘が自分と婚約をしてしまったと、みち子を見ると、この娘がねえと、珍しいものに眼を見張る子供のように快い驚きを感じる。

 不思議でならない。私の遠い過去が新しい光りを浴びて、見て下さい見て下さいと、私に小さく擦り寄って甘えている。私のような者と婚約してしまってと、なぜだか、無鉄砲なみち子が可哀想でならない。あきらめーー結婚の約束は一つの寂しいあきらめかしら。ふと私は、広い闇を深く落ちてゆく二つの火の玉を見ている。何だか、世の中一切が、音のしない小さい遠景に見える>

 夕食が終わって夜が更けると、金華山の麓の闇に篝火が点々と浮かんだ。鵜飼船の焚く篝火である。篝火は宿の川岸に寄ってきた。松明の燃えさかる音が聞こえた。

<鵜匠は舳先に立って十二羽の鵜の手綱を巧みに捌いている。舳先の篝火は水を焼いて、宿の二階から鮎が見えるかと思わせる。

 そして、私は篝火をあかあかと抱いている。焔の映ったみち子の顔をちらちら見ている。こんなに美しい顔はみち子の一生に二度とあるまい。

 私たちの宿屋は下鵜飼にある。長良橋の下を流れて消える篝火を見送ってから、三人は宿を出た。私は帽子もかぶっていなかった。朝倉は柳ケ瀬で電車をぷいと、二人で行け、と言わぬばかりに下りてしまった。私とみち子と二人きりが乗客の電車は、灯の貧しい町を早く走って行った>

 小説はここで終わっている。しかし、この恋は悲恋で終わった。初代がふいに川端の目の届かないところに姿を消したからである。川端がこの小説を書いたのは、それから5年後の26歳のときだった。

 なぜ、結婚の約束は破られたのか。「非常」と題された別の自伝的小説にはその顛末が書かれているが、これを読んでみてもよくわからない。初代の養父母を中心に、この結婚に反対する声が強かったことが想像される。「南方の火」の中には、少女から来た手紙が引用されている。

<あなた様は私を愛して下さるのではないのです。私をお金の力のままにしようと思っていらっしゃるのですね。・・・あなた様がこの手紙を見て岐阜にいらっしゃいましてもお目にかかりません。お手紙下さいましても拝見しません。どのようにおっしゃいましても東京へは行きません。私は自分を忘れあなた様も忘れ真面目にくらすのです>

 康成は「南方の火」の中で「16の少女と一緒になれるーーこれだけでも美しい夢だった」と書いているが、やはり現実からあまりに浮き上がった、観念的で幼い恋だったのだろう。康成の一人相撲の「美しい夢」に、少女も周囲も不安を覚えたのではないだろうか。

 川端は婚約をする一ヶ月前にも川端は京都からの帰りに岐阜を訪れ、鵜飼宿に少女を誘っていた。そのときの様子が「南方の火」にはこう書かれている。

<夏休みが終わって京都から東京へ行く途中、時雄と水澤とは岐阜に代って弓子を長良川べりの鵜飼宿へ連れ出した。金華山の影が宿の屋根に落ちていた。縁側から長良川の南岸に下りられた。

 岸には薄や萩がまばらで、遊船会社の鵜飼見物船が並んでいた。早瀬の色は初秋だった。長良橋が左に見えた。その上を渡る電車の音を時雄は幾度も遠い雷と聞き違えた。月が明るくて鵜飼は休みだった>

 川端が少女と歩いた長良橋を私も何度か歩き、彼らが眺めたであろう景色を私も眺めた。そして私が尊敬する川端にも、こんな幼い恋の時代があり、切実な体験があったことを思いだし、ほほえましく感じたものだ。

 川端たちが9月に泊まった長良川南岸の宿は現在も「ホテルパークみなと館」として営業している。また、「篝火」の舞台になった北岸の旅館は「鐘秀館」で、現在は十六銀行の研修センターになっているという。いずれも長良橋に立てば眺めることができる。

(参考サイト)
http://www.tokyo-kurenaidan.com/kawabata-hatsukoi1.htm


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