橋本裕の日記
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2005年11月23日(水) 愚かなる神宮建設

 通勤電車で毎日「石橋湛山評論集」(岩波文庫)を少しずつ味わいながら読んでいる。明治から大正の初めの頃に「東洋経済新報」などに掲載されたあたりを読んでいるが、その内容が少しも古くなっていないのに驚く。

 今日は大正元年9月の「東洋時論」に掲載された「愚かなる神宮建設の議」という評論を紹介してみよう。明治天皇がなくなり、国民は悲しんだ。天皇の功績をたたえるために神宮を建設しようという声が高まる。これに湛山は反対である。

<或る一部から多大の希望を嘱せられて東京市長の椅子を占めた阪谷芳郎は、その就任最初の事業として、日枝(ひえ)神社へお参りをした。それから第二の事業として明治神宮の建設に奔走しておる。そうしてその第一の事業もなかなか世間の賞賛を博したが、第二の事業はまた素晴らしい勢いで、今やほとんど東京全市の政治家、実業家、学者、官吏、それからモップの翼賛する処となっておるようである。

 しかしながら、阪谷男よ。それからその他の人々よ、卿らの考えは何でそのように小さいのであるか。卿らはわずかに東京の一地に一つの神社くらいを立てて、それで、先帝陛下と、先帝陛下によって代表せられたる明治時代とを記念することが出来ると思っているのか>

 湛山によれば、明治時代の最大特色は人々が考えているように「帝国主義的発展」にあるのではない。大戦争を経験し、陸海軍が盛大になり、台湾も樺太も朝鮮も日本の版図になった。しかしこうしたことは、明治という時代の一面にすぎないという。

<その最大事業は、政治、法律、社会の万般の制度および思想に、デモクラチックの改革を行ったことにあると考えたい。軍艦をふやし、師団を増設し、而して幾度かの大戦争をし、版図を拡張したということは、過去五十年の時勢が、日本を駆ってやむをえず採るらしめた偶然の出来事である、一時的の政策である。

 一時的の政策、偶然の出来事は、時勢が変われば、それと共に意義を失ってしまう。しかし、明治元年に発せられた世に有名な御誓文を初めとして、それ以後明治八年の元老大審院開設の詔勅、明治十四年の国会開設の詔勅において、いくたびか繰り返されて宣せられた公論政治、衆議政治即ちデモクラシーの大主義は、今後ますますその適用の範囲を拡張せられ、その光輝の発揮せらるることありとも、決して時勢の変によってその意義を失ってしまうようなことはない。

 而してもし明治時代が永く人類の歴史の上に記念せらるるとすれば、実にこの点においてでなければならぬ。しかも我が国民の上下は果たしてこの点においてどれほど深く明治時代の意義を意識し、而してこれを完成するの覚悟をもっておるであろうか>

 一介の科学者であるノーベルが永遠に世界の人々の心に残るのは、「その資産を世界文明のために賞金として遺した」からである。湛山はこのノーベルの例を持ち出し、明治天皇の功績を世界に知らしめるために、一木造石造の神社建設に夢中になって運動し回るのはやめて、「明治賞金」をつくれと提唱する。

<東京のどこかに一地を相して明治神宮を建てつるなどということは実に愚かな極みである。こんなことは、断じて先帝陛下の御意志にもかなったことではないのみならず、また決して永遠に、先帝陛下を記念しまつる所以でもない。真に、先帝陛下を記念しまつらんと欲すれば、まず何よりも吾人は先帝の遺された事業を完成することを考えねばならぬ。而してもし何らか形に現れた記念物を作らんと欲するならば「明治賞金」の設定に越して適当なものはない>

 湛山がいうように「明治賞金」が出来ていたら面白かったにちがいない。この資金で近代化のために努力しているアジアやアフリカの人々や団体を励ますことができただろう。世界に対する宣伝効果ははるかに大きなものがあったに違いない。そして、これが日本国民に与えた影響も大きかっただろう。

 しかし、日本はそうした道を進まなかった。国内のみならず植民地にまで神社を建設し、植民地の人々に礼拝を強要した。こうして神国日本の神話が作られていった。明治天皇の死がその契機になっていることが、湛山の文章を読むとよくわかる。


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