橋本裕の日記
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私は明治時代が偉大だったのは、教育に力を注いだからだと思っている。政府は外国から多くの教育者を招聘したが、その俸給は総理大臣よりも高かった。
さらに学校の建物にもお金をかけた。外国人が日本にやってきて、政府の建物よりも何よりも一番立派なのが学校だと驚いている。今でも明治時代に建てられた小学校があちこちに文化財として残っているくらいだ。
教育にお金をかけなくなって、軍艦ばかりつくるようになり、教師ではなく軍人が尊敬されるようになって、日本はどんどん悪い方向に走り出した。
教育をどれほど大切に考えるか、そして教育界にいかに優秀な人材を得るかということがこれからに日本にとって重要である。もちろんここでいう教育は単なる知識詰め込みの教育ではない。専門的にすぐれていると同時に、人格的にもすぐれた教育者による全人教育である。
その昔、教師の待遇が悪くて、「でもしか教師」が流行った。大学を卒業してみたが大企業に就職できなくて、「しようがないや、教師にでもなるか」ということでほとんど無競争で教師になった人たちだ。しかし、こうした人たちに教育をまかせれば、国の将来が傾くことは想像できる。
ところで、10月20日、財政制度等審議会で教員給与が行政職を11パーセント上回るとして、教員給与の優遇が問題にされた。これをうけて中日新聞などのマスコミがこれを一面トップで報じた。
これを読んだ人は誰でも教員が給与面で優遇されているような印象をもつだろう。そもそも一般の公務員が高給を取っているというイメージが定着しているうえに、さらに優遇されているのだから、けんしからんということにもなりかねない。
しかし、近所の民間会社に務める人と比較して、わが家の暮らしぶりはひときわ質素で慎ましい。妻も私もこの10年間洋服を新調することもなく、私は理髪店にもこの3年間行かずに、自前でやっている。この日記を書いているパソコンも10年以上前に買った骨董品だし、車は10数年前にはじめて新車で買ったカリーナを17万キロ以上乗り回している。
最近は、健康上の理由から土日や休日の夕食を抜いているが、これには経済上のこともある。妻と二人で食事代が一食1000円として、これで月に約1万円ほどの節約になる。しかしいくら節約しても貯蓄をするゆとりはない。子供の教育費用の捻出と住宅ローンにあえぐなかで、今はやりの投資などとは無縁の人生である。
というふうに、私の生活実感からして、それほど高給をいただいてきたという実感はないのだが、これはあくまで主観である。そこで、もう少し客観的なデーターを紹介しよう。まず、一般の国家公務員について、8月18日の日記に紹介した統計を引用してみよう。
<国家公務員の場合は、従業員数5人の小企業にくらべれば、月平均で6万円ほど高い給料をもらっている。しかし、500人規模の中企業にくらべれば、月収は10万円低いことになる。大企業に勤めるいわゆるエリートサラリーマンとはくらべようもない。これも誤解にないようにつけくわえておくが、ここで給料というのはさまざまな手当も含めた総収入である>
さて、教職員組合の資料によれば、一般行政職にくらべて教員が11パーセント高くなっているのは、教員給与のみ教職員調整額を加算しているからで、こうした点を補正をすればこのギャップは現在は5パーセント未満になっている。さらに平均年齢の違いがある。また大卒の比率は教員が88パーセントであるのに対して、行政職は55パーセントである。
こうした要素を勘案し、さらに教員が現場に身を置く現業であることを勘案すれば、はたして教員の給料が行政職に比べて高いと言えるのかどうか疑問である。ちなみに、行政職との給与格差は消防で16パーセント、警察で21パーセント割高になっている。しかし、こうした現業の給与水準が高いという批判はあまり聞かない。
給料が高い低いというのは、その仕事の内容との比較でなされるものだ。医師や弁護士が高給をとるのが当たり前というのも、それだけ仕事が専門性を要求される高度なものだと一般に受け入れられているからだろう。
例えば教育先進国のフィンランドの場合は、教員はすべて大学院卒業資格をもたせている。そしてそれに見合う高給を与えている。教師に高い専門性を要求し、こうした教師集団によって可能な高質の教育こそ国が発展する基本だと考えているからだ。
公務員が給料が高いと人々が考えるのは、そのパフォーマンスに対する評価が低いせいだろう。実際、給料の水準に見合った公共サービスのパフォーマンスをしているのか、この点は問題である。
平均に比べて高いから引き下げるというのは暴論だが、パフォーマンスが悪いのであれば改善しなければならないし、改善できないのであれば、給料は下げざるを得ない。しかし、教員の場合、その待遇については、国の将来をみすえて慎重に考えるべきだろう。
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