橋本裕の日記
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米英開戦の翌年、連勝祝賀でわきたつ世論を背景に、東条内閣は万全の下準備のもと、4月30日に総選挙を行った。東条はこの選挙で、候補者の推薦制を実施すると宣言していた。
推薦制というのは、すでに一部の地方選挙で行われていた。つまり、地方の有力者が候補者を推薦し、他の立候補をみとめず、そのまま無投票で当選を決めてしまうやり方だ。
もちろんこんなことは憲法違反であり、いくら戦時中だと言えやってはならないことだ。しかし、東条はこれを行うべく、翼賛政治協議会をつくり、議員定数の466名の候補者を推薦させた。
これに先だって、警視庁情報課が現職代議士を次の3つのグループに分類した「立候補適格者名簿」を作成している。
(甲)時局に即応し、率先垂範国策遂行のため他を指導し、代議士たるの職務を完遂し得る人物(85名)
(乙)積極的活動なきも時局に順応、国策を支持し反政府的言動なき人物(207名)
(丙)時局認識薄く徒らに旧態を墨守し常に反国策的・反政府的言動をなし又は思想的に代議士として不適当なる人物(138名)
憲政の神様と呼ばれ、連続当選20回、東京市長をはじめ、文部大臣、司法大臣を歴任した尾崎行雄は、この「立候補適格者名簿」では徒らに旧態を墨守する非適格者の丙に分類され、翼賛政治協議会の推薦も得られなかった。しかし、すでに82歳だった尾崎翁はいささかもひるむことなく、無所属で立候補した。
それどころか同じく無所属で立候補した人たちの応援にたった。これをよしとしない官憲は、尾崎の応援演説の中に天皇に対する不敬があったったとして、投票1週間前に逮捕し留置所に拘置する。
尾崎翁の不敬罪というのは、「売家と唐様で書く三代目という川柳がある。たいてい三代目になると没落する。しかし日本は明治天皇が英明で憲法をおつくりになったおかげで大正天皇、今上天皇の代になって日本はますます発展した」という発言に対するものだった。
「畏くも天皇陛下が川柳の三代目に当らせらるるかの感を与える」ところが不敬だというのだから、あきれるしかない。幸い尾崎はそれでも当選した。しかし、裁判は非公開で行われ、12月21日には東京刑事地方裁判所は懲役8ケ月、執行猶予2年の判決が下された。尾崎はただちに大審院に上告した。
大審院の判決が下ったのは、東条が職を退き、敗戦間近の1944年6月29日のことだ。三宅正太郎裁判長は尾崎には不敬の範囲はなしとして、尾崎を無罪と断じた。さらに「被告人は謹厳の士、明治大正昭和の三代に仕ふる老臣なり。その憲政上に於ける功績は世人周知のところ」と尾崎を誉め讃えた。昭和の名判決といわれるゆえんだ。
東条の翼賛選挙で、推薦候補はひとりあたり5千円の資金援助をうけるなど、政府や軍部から手厚い援助をうけた。在郷軍人会や町内会、隣組の常会が開かれ、内相自らがラジオを通じて全国民に「翼賛選挙」の意義を訴えた。新聞や雑誌もこぞって翼賛選挙を応援した。
これに加えて、非推薦の候補には官憲による厳しい取り締まりや恫喝、いやがらせが加えらた。その結果、東条政権をささえる翼賛政治協議会が推薦する466名の候補のうち381名が当選しました。翼賛候補の当選率はなんと81パーセントをこえた。これによって、東条政権は独裁的な地位を掌中に収めた。
しかし、当時の状況の中でも、尾崎をはじめ非推薦候補が85名当選している。419万票、34パーセントの票が非推薦候補に投じられていた。まだこれだけの人たちが、東条内閣に批判的だったわけだ。
非推薦候補として当選した人の中には、極右翼的な立場から東条は手ぬるいと批判する人たちも少なからずいたが、1940年2月の国会で反軍演説を行い、議員の身分を剥奪された斎藤隆夫のような軍部独裁に批判的な人もいた。彼は兵庫五区から立候補し、トップ当選を果たしている。どんな時代にも骨のある政治家がいて、勇気ある有権者がいた。
なおこの総選挙は本来ならば、1941年に行われるべきものだった。ところが近衛内閣は、日中戦争が泥濘に入り、世論が政府に批判的だと判断して、特別立法で総選挙を1年間延長した。
この間に太平洋戦争が勃発し、世論が一気に政府や軍部に友好的になったわけだ。こんなことができたのも、大政翼賛会に支えられた近衛内閣だったからだ。これも憲政上きわめて異常なことだと言わなければならない。
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