橋本裕の日記
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2005年11月01日(火) 待ちに待った日米開戦

 1941年12月8日午前7時、ラジオの臨時ニュースは「帝国陸海軍は本日未明西太平洋において米英軍と戦闘状態に入れり」と報じた。さらにその日の正午、「億兆一心国家ノ総力ヲ挙ゲ征戦ノ目的ヲ達成」せよとの天皇の詔書を放送した。

 皇居の二重橋前の広場には、国民が詰めかけ、土下座して宮城を拝する者もいた。官庁には「進め一億火の玉だ」「屠れ米英我らの敵だ」という垂れ幕がさげられ、全国の映画館と劇場では午後7時から興業を一時中断し、東条首相の「大詔を拝し奉りて」の録音放送を観客に聞かせた。

 1937年7月7日の廬溝橋事件に端を発した日中戦争が4年間続いていたが、戦局は泥沼化するばかりで進展はなく、米英から経済封鎖を受ける中で国民生活も圧迫され、日本には閉塞感が重苦しく漂っていた。

 徳川無声も12月4日の日記に「日米会談、相変わらず危機、ABCD包囲網益々強化、早く始まってくれ」と書いている。それだけに日米開戦とそれに続く帝国陸海軍の快進は、国民を狂喜させた。高名な詩人の北原白秋は次のような歌を詠んだ。

 天にして雲うちひらく朝日かげ
 真澄に晴れたるこの朗ら見よ

 この歌は国民の多くの気持を代弁していた。桑原武夫は「暗雲が晴れた。スーッとしたような気持」と書き、河上轍太郎も「今本当に心からカラッとした気持でいられる」と書いた。戦後東大総長となった政治学者の南原繁は開戦の詔勅を聞いたときの心の高まりを、次のような和歌に託した。

 人間の常識を超え学識を超えて
 おこれり日本世界と戦ふ

「それからまもなく昼頃戦果の発表でしょう。そうしたら、ぽろぽろ涙が出てきた。支那事変というものは、はっきりとした情報があたえられていないにもかかわらず、憂鬱な、グルーミーな感じだったのに、それがなにかすっきりしたような、この戦争なら死んでもいいやという気持になりましたね」

 戦後作家になった阿川弘之もこのように当時を回想している。翌年2月15日にシンガポールが落ちると、首相官邸や陸海軍省に日の丸の小旗を持った市民や学生がおしかけた。18日の祝賀式では、東条首相のラジオによる「天皇陛下万歳」の三唱に、ラジオの前に集まった何千万という国民が唱和した。

 この日、皇居の二重橋前の広場は数万の群衆でうめつくされた。午後1時55分、愛馬「白雪」にまたがった天皇が二重橋の上に現れると、「天皇陛下万歳」の声がわき上がり、君が代の大合唱となった。やがて人気絶頂の霧島昇や藤山一郎らが歌った「大東亜決戦の歌」が国民に愛唱された。

 起つや忽ち 撃滅の
 かちどき挙がる 太平洋
 東亜侵略 百年の
 野望を ここに覆す
 今決戦の 時きたる

 こうして国民の熱狂的支持を得て、大西洋戦争は始まった。しかし、国民には知らされていなかったが、この戦争の先行きが暗いことは、戦争を裁可した天皇も政府も軍部の上層部も知っていた。

 1941年におけるアメリカの主要物資生産高は日本の76倍以上もあった。そして日本は石油や屑鉄をはじめ主要な産物をほとんど米英から輸入していた。とくに石油について、鈴木貞一企画院総裁は11月5日の御前会議で、「3年後の1944年末には軍需民需ともに需用困難におちいる」とはっきり述べていた。

 その数ヶ月まえの9月6日、天皇は近衛首相立ち会いのもと、杉山元参謀総長と永野修身軍令部総長を宮中に呼び出し、作戦計画について下問している。南方作戦によって石油の確保は可能だという杉山に対して、天皇は「お前の大臣の時に蒋介石は直ぐに参るといふたが、未だにやれぬではないか」と追求した。天皇の「絶対に勝てるのか」という大声の下問に、杉山は「絶対に勝てるとはとはもうしかねます」とあやふやな答をするしかなかった。

 11月4日に開かれた天皇臨席の軍事参議院会議で、永野は「開戦二カ年の間必勝の確信を有するも、将来長期にわたる勝局においては予見し得ず」と正直に述べている。東条英機首相兼陸相も、「戦争の短期終結は希望するところにして、種種考慮する所あるも名案なし。敵の使命を制する手段なきを遺憾とす」と述べていた。

 満州事変や日中戦争は出先機関の暴走によってやむを得ない形ではじまった。これに対して、太平洋戦争は天皇の臨席のもと、慎重な会議を重ねての決断である。しかも、その会議でだれもが勝利の確信を述べることをしなかった。それではどうして天皇はじめ重臣達はこのような先の見えない無謀な戦争に踏み切ったのか。

 それは重臣達もまた当時の重苦しい閉塞的な気分にうんざりしていたからだろう。そうした中で軍部を中心に不穏な動きがあった。当時朝日新聞社の主筆だった緒方竹虎が、そのころの国内の雰囲気を次のように伝えている。

「当時の国内情勢を大袈裟にいへば、外に戦争に訴えるか、内に内乱に堪へるか、二つに一つを択ぶ外ないような時局であった。それほど軍およびそれに引きずられた好戦的の勢ひを抑え難い事態だったのである」

 東条はこうした軍の暴走を抑えるためにあえて首相にしたのだが、結局、会議は東条の「二年間は南方の要域を確保し得べく全力を尽くして努力せば、将来戦勝の基は之に因り得るを確信す」という根拠のない楽観にもとづいた確信に押し切られてしまった。

 「無為に自滅をもとめず、死中に活を求めるべき」だという東条の主張に、対米慎重論者の海軍大将・米内光政元首相は「ジリ貧を避けんとしてドカ貧にならない様に充分ご注意願いたい」と発言した。しかし、このとき連合艦隊はすでに、真珠湾を目差していた。

 真珠湾攻撃は戦術的には成功だったが、戦略的には失敗だった。しかし、このあと、日本軍は戦術的にも失敗を繰り返し、自滅への道をたどっていく。その象徴が「特攻攻撃」であろう。まさに「ジリ貧を避けんとしてドカ貧」になったわけだ。

開戦の理由について、ABCD包囲網や資源の枯渇をあげる人がいる。天皇も戦後「石油」が開戦の理由だったとのべたことがあった。しかし、これはアメリカから出された条件をもっと真剣に検討し、妥協すれば回避できたことである。事実アメリカは「ハルノート」で日本に互恵的最恵国待遇を約束していた。

<米国政府及び日本国政府は、両国による互恵的最恵国待遇及び通商障壁引き下げを基本とする米日間通商協定締結のための交渉に入るものとす。右通商障壁引き下げには生糸を自由品目に据え置くべき米国による約束を含むものとす。米国政府及び日本国政府は、各々米国にある日本資産及び日本にある米国資産に対する凍結措置を撤廃するものとす>

 「屈辱的な要求により、やむを得ず開戦に至った」などという論調が今もまかり通っていることに対して、この人たちが本当にハルノートを真剣に読み、その精神を理解しようとしたことがあるのか疑問に思わざるを得ない。

<合衆国政府及日本国政府は、共に太平洋の平和を欲し、其の国策は太平洋地域全般に亙永続的且広汎なる平和を目的とし、両国は右地域に於て何等領土的企図を有せず、他国を脅威又は隣接国に対し侵略的に武力を行使するの意図なく、又其の国策に於ては、相互間及一切の他国政府との間の関係の基礎たる左記根本諸原則を積極的に支持し、且之を実際的に適用すべき旨闡明す>

 米内首相が主張したように、ナチスドイツを排してアメリカと組む事がもっとも理性的な選択だったわけだ。その上で、これを逆手にとって東南アジアの独立に寄与すれば、日本は今も世界から尊敬される国として大いに繁栄していたことだろう。残念ながら、天皇をはじめ当時の指導者にはそうした英明さはなく、事情を知らない軍や国民の不満と熱狂に押し流されていくしかなかった。

(参考文献)
「昭和の歴史 7 太平洋戦争」 木坂順一郎著 小学館


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