橋本裕の日記
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2005年10月31日(月) 特攻の責任者

 戦争犯罪人という言葉がある。この言葉で最初に連想するのは、東条英機だろう。しかし、実はその上に大元帥としての天皇がいた。もし東条が戦争犯罪者なら、その上に立ってこれを認可した天皇もまた犯罪者である。

 しかしこの常識が覆され、天皇が命拾いしたのはマッカーサーが天皇に利用価値を見いだしたからだ。日本を統治した連合軍の長がプラグマティストのマッカーサーだったことは天皇にとって幸運なことだった。

 もちろんその前提には、天皇が戦後も大多数の国民から尊崇されていたということがある。天皇を処刑せよという声は国民のなかからはほとんどあがらなかった。むしろ戦争に負けたのは国民がふがいなかったからで、天皇に申し訳ないという「一億総懺悔」という言葉が流行ったくらいである。

 ところで、特攻作戦の実行者は大西中将だが、これを許可したのは米内海軍大臣である。海軍の重鎮で、天皇からも信頼されていた米内大将は、当初から対米開戦には反対で、開戦を決定した御前会議でも「死中に活を求める」と主張した東条首相に対して、「ジリ貧を避けようようとしてドカ貧にならないように」と発言している。

 米内元首相は戦争が始まってからは終始一貫して早期講和を主張してしていた。首相を務めた重臣の彼が東条内閣で海軍大臣を引き受けたのも、東条の暴走を止め、講和を実現するための布石だった。大西中将はそうした米内大臣の下で航空部隊の研究・運営を任されていた。大西を第一航空隊司令長官に任命したのも米内である。

 特攻作戦は大西中将が発案するまでもなく、海軍内にはこれを主張するものがいた。しかし当初大西はこれを却下していた。大西が苦渋のすえ、この「外道」の作戦を採用しようと決意したのは、レイテ決戦で戦争に決着をつけようと思ったからだ。

 また、米内海軍大臣がこれを了承したのも、レイテでけりを付けたいという戦争終結に向けた思惑があったからだろう。いかにして戦争を終わらせるかという発想からの許可だったと考えられる。

 しかし栗田艦隊の「謎の反転」で、相手に打撃を与えることもなく、戦艦大和とその護衛艦が残されてしまった。こうして講和のシナリオが狂ってしまった。このように考えると、歴史上のいろいろな謎が解ける。

 海軍内には和戦両派が対立していた。特攻作戦というのは、この両派の対立の狭間で生み出された鬼子だった。特攻が終戦工作の一貫として始まったとしても、結果はそうなならなかった。むしろ戦争を長引かせ、戦争の質さえも狂気に満ちたものに変えてしまった。そこに歴史の教訓を読みとることができる。

 戦争を終わらせるための手段であったものが、自己目的化して、戦争を継続するための支柱になってしまった。これは世の中によくあることだ。「特攻」についても、この逆説を理解することが重要だと思っている。


橋本裕 |MAILHomePage

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