橋本裕の日記
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2005年10月30日(日) 生き残った特攻隊員

 もう20年近く前になるが、私の職場の上司(教頭)のH先生が特攻の経験者だった。彼が定年退職するとき、同じ理科の教員ということもあり、私はもう一人若い理科の教員も誘って名古屋駅近くの料理屋に招待した。

 H先生は中日文化賞を受賞するなど、教育の分野で大きな功績を残していた。後輩としていろいろ参考になる話を聞こうと思ったが、H先生は職場でも謹厳実直そのもので、滅多に口を開かない。さすが宴会ではにこにこしていたが、それでも寡黙だった。

 ところが、私が彼の戦争体験を聞いたときから、雰囲気がかわった。彼が静かに自分の戦争体験を語りだしたのだ。寡黙な彼が、ときどき涙を浮かべながら話す内容は、私にとって衝撃的なことだった。私たちは口を閉じ、彼の語る世界に入った。

 特攻では片道の燃料しか積まない。まさに死出の旅である。H先生はまだ19歳になったばかりで、この死出の旅に飛び立った。しかし、どうしても死にたくはなかった。「生きていたい」という思いが強まり、気がついたときには引き返していたのだという。

 引き返しても、基地までもどる燃料はない。また戻っても待っているのは上官の譴責である。譴責ですめばよいが、軍法会議にかけられるかもしれない。同僚にも合わす顔がない。ふたたび反転しようかと思ったが、燃料がなかった。燃料切れで海上に落ちることになった。

 飛行機から必死で脱出したものの、広い太平洋の真ん中である。それでもいましばらく生きていられるころがうれしかった。南国の青い空を眺め、死を覚悟しながら波に漂っていると、突然海面に潜水艦が浮上した。それは日本軍の潜水艦だった。こうして彼は奇跡的に生還した。

 戦争が終わり、彼は学校に入りなおして教員になった。家庭を持ち、教員としての生活も精一杯尽くしてきた。「生きていてよかった」という思いと同時に、自分が特攻隊員として生き残ったことに、自責の念もあるのだという。それはとても重い告白だった。

 私はこのとき、初めて特攻というもののむごさを意識した。それから、特攻隊員の遺書や手記をよく読むようになった。最近手にした角田和男さんの「修羅の翼 零戦特攻隊員の真情」には、特攻を前にして必死に精神のバランスを保とうとする若い特攻隊員たちの赤裸々な姿が描かれている。この本を読みながら、久しぶりにH先生のことを思いだした。


橋本裕 |MAILHomePage

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